まど・みちおさんの詩に改めて驚く
【3月2日特記】 詩人のまど・みちおさんが亡くなった。前から好きだったと言うのではない。名前にかすかに記憶があったという程度だ。
しかし、亡くなってみて、童謡になった彼の作品名を並べると、『ぞうさん』『 一ねんせいになったら』『ふしぎなポケット』『やぎさんゆうびん』など、ああ、これも彼の作品なのかと驚く。
そして、改めてその作品を読んでみると、そのべらぼうな感性に驚くのである。
子供が象さんに対してお鼻が長いのねと呼びかける。すると「そうよ、母さんも長いのよ」と答える──つまり、「これは遺伝的形質である」と言うのである。なんという論理的な答えか!
その究極的に論理的な答えが、「母さんも長い」という、日本語独特の主語・述語の論理的な関係性が破綻した表現形式(つまり、これをそのまま英訳すると、Yes, my mother is also long となって意味を成さない)で返されるのである。
そして、「ぞうさん」と「かあさん」という、響きの上では対句になっているが、意味としては対句をなさないコミカルな組合せ。
このそれぞれのアンバランスのすごさ!
1年生になったら友だちたくさんできるかな、ではなく、ひゃくにんできるかな、とする、この表現の切れを見よ!
「ひゃくにん」というのは100人のことではない。99+1 や 101-1 の 100 ではなく、就学前の児童にとっては、それは「とてもたくさん」という意味なのである。逆に言うと、凡庸な大人の発想からはこの表現は決して出てこない。
とてもたくさんという抽象概念をひゃくにんという具体的な数で表す表現の飛躍のすごさ!
ビスケットが入ったポケットを叩くとビスケットが2つ、3つと増えて行く。
「それは、おっさん、ポケットの中でビスケットが割れとんねんがな。数は増えても総体積は変わらんで。いや、砕けて粉になった分減っとるがな」と大人は考えるのであるが、この人の頭の中では多分そうではないのである。
何よりもこの歌はポケットとビスケットという韻からスタートしているのは明らかで、そこからこういう空想を生み出すところが頭の柔軟さなのである。
ビスケットが増えてもポケットから溢れない不思議!
そして、白ヤギさんから届いた手紙を黒ヤギさんは読まずに食べてしまって、何の用事だったか分からないので「何の用事だった?」と返事を書くのだけれど、それをまた白ヤギさんが読まずに食べてしまって、何の用事だったか分からないので「何の用事だった?」と返事を書くのだけれど、それをまた黒ヤギさんが読まずに食べてしまって──という、どこへも行けない堂々巡りのすごさ!
これはなんか我々の社会や人生を象徴していないか?
コミュニケーション・ブレイクダウン、でも、食うのには困らない。
この観察眼の鋭さと風刺の大らかさ!
他には『おならはえらい』なんてのもある。出て来たときにきちんと挨拶するからだそうである(笑)
最近、読んでいても耳で聴いても、ハッとしたりドキッとしたりする詩に出くわすことが非常に減ってきた。Jポップの作詞家などは、まどさんの詩を読んで少し勉強したほうが良いかもしれない、などと思った次第である。
★この記事は以下のブログからTBさせていただきました。
Comments
こんばんは!
記事に書いておられるとおり、すごい言葉のセンスを持った方だと思います。
この週末、「やぎさんゆうびん」についてブログで書いてみました。
トラックバックさせてくださいね。
Posted by: リリカ | Sunday, March 02, 2014 20:07
> リリカさん
いやぁ、リリカさんの書いておられること、深いっすねえ。僕もトラックバックさせてもらいました。
Posted by: yama_eigh | Sunday, March 02, 2014 23:04