『フラニーとズーイ』J・D・サリンジャー(書評)
【3月29日特記】 佐藤友哉の『ナイン・ストーリーズ』を読んで、その流れでサリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』を柴田元幸訳で読んで、そこに「まるで村上春樹だ」という文体を発見して驚いていたら、ほとんど間を置かずに村上春樹訳のこの本が出版されてものすごく驚いた。まるでフラニーやズーイのように、僕もそこに何等かの神の意思を読み取ってしまったくらいだ。
サリンジャーは「訳者あとがき」的なものを許さないとのことで、文庫本に差し込みチラシの形で、村上による「こんなに面白い話だったんだ!」というタイトルの解題が入っていて、これがまた「こんなに面白い!」と驚くような内容だった。
村上はこの本を大学に入ってすぐに読んだと言う。彼はまず『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読んで、その後でこの本を翻訳で読んだらしく、おおかたの読者はそういう順番で読んだのではないかと言う。そして、「その小説の内容のいったいどこに惹かれたのか(中略)もうひとつ定かでない」とも書いている。
僕は最初に読んだのは『ナイン・ストーリーズ』の『笑い男』の原文で、それからこの『フラニーとゾーイー』を原文で読み、そして『ライ麦畑でつかまえて』を野崎孝訳で読むという順番だった。
僕がサリンジャーに遭遇したのも、村上と同じく大学に入ってすぐの頃だった。そして、僕の感想も村上にそこそこ近いものがあり、『フラニー』のほうは割合すんなり入ってきて、この何でもない話がなんでこんなに心を揺さぶるのだろう、と驚く一方で、「え、これで終わっちゃうの?」という思いもあった。
それに続く『ゾーイー』のほうは、村上も「いやに宗教臭かった」と書いているが、僕も読んでいて結構しんどかった記憶がある。
それは今振り返れば、ズーイ(野崎訳ではゾーイーで村上訳ではズーイである)の饒舌な減らず口と深い宗教談義を原文で読み込むのは、これは日本人には相当しんどい作業であったはずである。
この辺の文体に関する話は村上の解説が大変面白いので、文庫本を買った方は間違って捨てないようにご注意申し上げておく。
で、僕は『ナイン・ストーリーズ』『キャッチャー・イン・ザ・ライ』に続いて、この本も結局原文と2つの邦訳で合せて3度ずつ読んだわけだ。
そして、サリンジャーの凄さを改めて思い知らされた気がする。この3冊の中では、『フラニーとズーイ』が一番壮絶だと思う。
いや、全然壮絶なストーリーではない。村上に言わせれば「議論小説」である。
大学生の僕は、世の中にこんな小説があったのか、と大いに驚き、しかし、この小説のどこがどう凄くて、なんでこんなに惹かれるのかがよく解らなかった。
それから、(ホームページのほうには書いた話だが)僕は小説を書き始め、在学中に群像新人賞に応募したもののあえなく一次審査で落ち、その時に受賞したのが村上春樹の『風の歌を聴け』だった。
あの時僕は何が書きたいか分からないまま小説を書いていたが、今この本を読み返してみて、実は僕が書きたかったのは『フラニーとゾーイー』みたいな小説だったのだ、と今初めて気づいた。
僕にはそれが書けなかったが村上春樹にはそれが書けたわけだ。もちろん『風の歌を聴け』は『フラニーとゾーイー』と似ても似つかない小説だ。だが、僕も村上も同じようにこの小説に揺さぶられたのである。
村上の血の中にも、僕の血の中にも、同じものが流れているのだと知って、なおさら感無量の思いである。
小説の中味については、今回は書かないことにする。
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