『ナイン・ストーリーズ』J・D・サリンジャー(書評)
【2月19日特記】 佐藤友哉の『ナイン・ストーリーズ』を読んだことが契機になって、と言うか、佐藤友哉の『ナイン・ストーリーズ』の書評を書くために本家本元の『ナイン・ストーリーズ』を読みなおした、と言うか、佐藤友哉のお陰で買ったまま放ってあった柴田元幸訳を読み始められた。
僕はこの本を3度読んだとこになる。最初はサリンジャーの原文を、次に野崎孝訳を、そして今回の柴田元幸訳である。
実は同じようなことを前にもやっている。同じサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』である。原文と、野崎孝訳と、村上春樹訳の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』で。
いずれも3回読めば3回とも、少しずつ違った形で心に響くものがある。この辺りがサリンジャーの凄いところなのだろう。
今回読んでいて不意に感じたのは、「これはまるで村上春樹だ」ということだった。特に「エズメに──愛と悲惨をこめて」(野崎訳では「エズミに捧ぐ──愛と汚辱のうちに」)のエズメのような主に子供の登場人物たちの、子供らしからぬ、時ににべもない受け答えは、村上の小説の登場人物の(特にその人物がうんざりしている時の)話し方に非常によく似ていると感じた。
村上はフィッツジェラルドについてはいろんなところに書いていて、僕にもはっきりその記憶があるのだが、果たしてサリンジャーが自分に与えた影響について書いていただろうか? いずれにしても村上春樹も間違いなく多かれ少なかれサリンジャーの影響を受けているのではないかと思う(もちろん、だからこそ『ライ麦畑』を翻訳したのだろうけれど)。
サリンジャーは、大学生になったばかりの僕に「こんな小説もあるのか」という大きなショックを与えてくれた作家だった。何だか解らない、けど、凄い──そんな作家だった。
あれから30年以上経ってから読みなおしても、やっぱりその感慨は変わらない。ただ、前に読んだ時よりも少し青臭さは感じた。これは野崎訳と柴田訳の違いではなく、単に僕が年をとったということなのだろう。
日本の社会と日本語が少しずつ変成して、少し古めかしくなってしまった野崎訳は、名訳ではあるけれど、やっぱり今読むとその表現に引っかかってしまうところがあるはずである。柴田元幸が訳しなおしたのは、その点を改めることが第一目的だったのではないかと僕は思っている。とてもケレン味のない素直な訳なのである。「俺ならもっとうまく訳せるぞ」という気負いみたいなものが全くないのである。
例えば A Perfect Day for Bananafish を野崎は「バナナフィッシュ日和」と訳したのに対し、柴田は「バナナフィッシュにうってつけの日」と訳した。どちらが名訳かと言えば僕は野崎に軍配が上がると思う。ただ、逆に言うと、これは「日和」という表現を思いつくか思いつかないかの勝負なのであって、僕は柴田はそういう不安定な感覚に左右されない翻訳を心がけたように見えるのである。
ただ、一点だけ残念だなと思ったのは、「愛と汚辱のうちに」を「愛と悲惨をこめて」としたところである。これは変える必要はなかったのではないかな。
squalor というのはビッグ・ワードである。特に小学生が使うには途轍もなく難しい単語のはずである。それを「悲惨」と訳すのはあまりに軽すぎるように思う。「汚辱」というワーディングは、これも野崎孝らしい名訳で、僕は読み終えてから何日間もこの単語が頭の中から離れなかった記憶がある。
そう思って9つの章題を眺めると、やはり野崎訳に一日の長があるのかな。タイトルというのはある程度古式ゆかしいほうが似合うものなのかもしれない。
いずれにしても、歴史的に評価の定まった名作短編集である。僕なんぞが書き添えることなんか何もないのである。
今これからお読みになるのであればこの柴田訳を手に取られれば良いと思う。僕が読んだのは雑誌「monkey business」の2008年秋号だが、今は文庫が出ている。
Comments
小川洋子さんの【注文の多い注文書】は
クラフト・エヴィング商會との共著なのですが
中に、【バナナフィッシュの耳石】という
サリンジャーに因んだ短編が出てきます。
Posted by: ksks | Sunday, February 23, 2014 20:17