自分の書いたものを読む
【1月6日特記】 年末からホームページのほうの言葉のエッセイの目次ページを作り替えたり、ブログのほうに過去の書評を移し替えたりする作業にかかっているのだが、そのためには必然的に昔書いた一つひとつのエッセイや書評を読み返すことになる。
面倒くさいかと思ったら、ところが、これが却々愉しいのである。いや、ナルシストのように自分の書いたものに耽溺しているわけではない。
ひとことで言って新鮮な刺激があるのである。
皆さんはそうでもないのかもしれないが、僕は自分の読んだものも見たものも書いたものもほとんど忘れてしまうので、こうやって自分の書いた文章をざーっと眺めてみると、半分以上はそんな文章を書いたという記憶さえない。
それを読み返してみても、大半は何かを思い出すことさえない。書評や映画評に至っては、そんな本を読んだり映画を観たことからして、きれいさっぱり忘れていたりもする。
だから、まるで他人が書いたものを読んでいるように新鮮で面白いのである。
ホームページに載せた文章はそもそも推敲したり寝かしたりを繰返して1ヶ月、2ヶ月かけて書いているので、迂闊にネットに上げてしまった文章と違って、後から読み返しても別に恥ずかしいようなものではない。
書評などは、あくまで読んだ直後の、その時その時の感慨を書き留めたものであるから、後から感じ方が変わってくることもざらにあるものだと割りきっている。だから、「今考えるとちょっと違うな」ということが書いてあっても後悔などはない。
となると、読み返してマイナスの印象はなくて、まあ、言ってみれば自分と同じ感性の持ち主が書いているだけに違和感は全くなく、非常に新鮮な共感を覚えるのである。
あ、ええこと書いてるやん
とか
これは却々巧い表現やな
などと(笑)
そうすると、それはどうやら自分が昔感じたり考えたりして書いたらしいのだが、まるで第三者が書いたみたいに、今の僕にとっては新奇な刺激となって、僕が今これからものを考えるためのヒントを与えてくれるのである。
これは愉しい。
ま、そういうのもナルシストと言うのかもしれないが…。
うん、言うなれば「忘れナルシスト」か。「忘れナルシズムを私に」とでもタイトルをつけておこう(笑)
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