『未明の闘争』保坂和志(書評)
【1月1日特記】 僕は何故この小説がこんなに面白いのかをうまく説明することができない。
いや、そう言われてうっかり信じてこれを読んだりしないでほしい。多分この小説を読んだ人のうち半分くらいは「こんな訳の分からんことをうだうだ言っているだけの本、どこが面白いの?」と言うだろうから。
この小説の文章は明らかにおかしい。プロの作家が書いたものとしてはあり得ないくらい乱れている。「私は」という主語が出てきて、それに繋がる動詞があると思っていたら、いつのまにか別の主語が出てきて別の動詞とくっついて文が終わってしまっている。
話し言葉ではよくある乱れ方だ。そして、作家はわざとそれを、しかも、頻繁に書いていて、僕は読むたびになんか引っ掛かるのだが、そういう表面的なことにこだわっていては先に進めないので、あきらめてどんどん先に進むくらいに話が面白い。
冒頭の、死んだはずの友だちの幽霊の話から、猫の話、飲み屋の女の子の話、ペテロの話、少年時代の話、妻との出会い、また猫の話、アキちゃんが現れて、横浜での飲み会の話、アキちゃんが家に来てゴリャートキンの話、隣家の娘さんと3人で深夜に話して、また猫の話、次第に今誰が語っているのかも分からないような話が入り乱れて、知らぬ間にまた元に戻っている。
突然何の断りもなく、地の文の中でいきなりロッド・スチュワートの『マギー・メイ』の訳詞が入ってきたりするのだが、その1行目から「ああ、マギー・メイだ」と分かる僕のような人間が読むのが最も適当である。ボブ・マーリーとか、他にもいろいろ出て来る。
真ん中から「私」と村中鳴海のやや艶っぽい話が良くて、はちゃめちゃだけどなんとなく同感できる鳴海が可愛くて、そうかと思うと、アキちゃんのバイクの話になったり、少年時代の話になったり、終盤は誰のことだか判らない「友達」の猫の話が延々続いて、もう猫への愛情が満ち溢れて、唐突に小説は終わる。
こんなもの、普通は面白いと思わないはずで、そんなものを書き始めた保坂という作家の心理が解らないが、読んでみるとこんなに面白い小説になっているところが、読み終わってからでも自分で腑に落ちない。
ともかく変な小説であることは請け合う。ともかくめちゃくちゃに面白い小説であることは、1割ぐらいの人たちに僕は請け合う。保坂和志の代表作であることはみんなに請け合う。
何とも言えない。読んでもらうしか。
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