かしぶち哲郎の死
【12月20日特記】 かつて美空ひばりや石原裕次郎が亡くなった時にがっくりとうなだれている人たちがいた。僕よりも20~30歳上の、僕の親たちに近い世代だ。
僕にはそれが何なのか分からなかった。いや、「ふーん、彼(彼女)はあの世代の人たちにとってそんなに大きな存在だったのか」と推測はできるのだが、実感としては全く共有できなかったのである。
ただ、いつしか自分が熱狂したり心酔したりしたミュージシャンも死ぬ時が来るのだろうなと、その頃から思い始めた。
忌野清志郎が亡くなった時は想像しなかったほどの大きな反響があったが、僕自身としては熱狂した対象ではなかった。加藤和彦は偉大なアーティストとして尊敬はしていたので、とても残念ではあったが、一方で強烈な“思い入れ”があったかと言えば、そうではなかった。
でも、自分が誰かの死に喪失感を覚える日は遠からず来るだろうと思っていた。しかし、その最初の存在がこの人になるとは思ってもみなかった。
かしぶち哲郎。作曲のクレジットでは橿渕という漢字表記も使った。そのかしぶちが12/17(火)に亡くなっていた。食道がんだったそうだ。
僕がかしぶちの作品を最初に聴いたのは、はちみつぱいのアルバム『センチメンタル通り』(1976年)のB面1曲目、『釣り糸』だった。
もちろんこの転調に驚いたわけだが、僕はその時「こいつは音楽がよく分かっていない奴だろう」と思ったのをよく憶えている。「音楽がよく分かってない奴が転調すると、こんな変な曲になっちゃうんだよな」と。
そんな風に思ったには理由がある。
僕らが中学・高校の頃、バンドを組んだときにドラムスを担当するのはあまり(学校の科目としての)音楽が得意な奴であった試しはなかった。
運動神経は優れていたりするのだが、音楽性ということで言うと、ギタリストやキーボーディストより何歩か後ろにいる奴であるのが普通だった。
そういう偏見があったから、僕はかしぶち哲郎を多分音楽がよく分かっていない奴だろうと思ったのだ。黙って太鼓叩いてりゃ良いのに、他のメンバーに対抗して作曲なんかするからこんな曲ができる、と思ったのである。
しかし、かしぶちはちょっと乾いた感じの、でも意外に重い、ちょっともたれた感じの音を出す、味のあるドラマーであっただけではなく、まず詩人であったし、渋いボーカリストでもあり、ギターも鍵盤楽器も演ったし、曲も作り、アレンジもし、プロデュースもする、マルチなミュージシャンであったのだ。
かしぶちにとって次の次のアルバムとなったムーンライダーズの『MOONRIDERS』のB面ラスト、『砂丘』で、僕はそのことを思い知ったのである。
ああ、この人の転調の感覚は、誰にも真似ができない、と。
そして、無常感溢れるこの詞。幻想的な曲に無常感溢れる詞が乗って、ゆらりゆらりと揺れている。
その後のことはいちいち書くまでもないだろう。いつもあっと驚くようなメロディを持ってくるわけではなく、逆に『ハバロフスクを訪ねて』のような、よくもここまでケレン味のない旋律を、と思うような曲もある。だが、どの作品にも幻想的な哀調がある。
僕はどんどん魅かれた。ある日、矢野顕子がかしぶち哲郎をものすごく評価していることを知って、誇らしい思いがした。
個性豊かなムーンライダーズのメンバーの中でも、とりわけ異彩を放つ存在だった。提供した作品数は少なかったが、それだけに独特の光を放っていた。
『オールド・レディー』(これは変拍子だった)、『バック・シート』、『スカーレットの誓い』、『二十世紀鋼鉄の男』…。良い楽曲をたくさん書き、印象的な詩をたくさん残した。
80年代に入るとソロ・アルバムを出すようになった(その中で矢野顕子とのデュエットもやった)。岡田有希子をはじめ、いろんな歌手に曲を提供した。そして、映画音楽。どれほど多くの映画音楽を手がけてきただろう。
まだ63歳だった。ほんとうに惜しい人を亡くした。偉大な人を亡くしてしまった。
こんな形で喪失感を味わうとは思ってもみなかった。
どうしたの?
いや
何でもないさ
僕はいつも
砂を握りしめて
倒れている
「薔薇がなくちゃ行きていけない」という佐藤奈々子の詞の意味がやっと解った気がする。
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