映画『凶悪』
【10月13日特記】 映画『凶悪』を観てきた。白石和彌監督。前作のデビュー作『ロストパラダイス・イン・トーキョー』の評判が良かったので観たいと思っていたのだが、東京以外では上映規模が極めて限られており、とうとう見逃してしまった。
タイトルの通り、凶悪な人間を2人、描いた映画である。
ひとりはピエール瀧が扮する須藤。暴力団員で、何人か人を殺して逮捕され、死刑判決を受け、上告中である。
もうひとりは、その須藤と結託して何人か人殺しもしたのに、何のお咎めもなくシャバで暮らしている通称“先生”こと木村(リリー・フランキー)。
須藤は獄中で、木村をぶっこんでやると息巻いている。最初は人を伝って雑誌記者の藤井(山田孝之)に、「先生と一緒にやった、誰にも言っていない余罪3件」を告白し、後に正式に法的に告発する。
しかし、この映画は、揃いも揃って極めてしたたかで、極悪非道の2人の犯罪者を描き、人の心の暗黒部分をえぐり出す──ことに終始するような、所謂「犯罪もの」ではない。
そこに、記者・藤井の日常生活を絡めて来るのである。藤井の家庭生活は認知症の母(吉村実子)と介護疲れした妻(池脇千鶴)とをまるで顧みないもので、ほとんど破綻しかかっている。
そういうところを描くことによって、ジャーナリズムの陥穽とでも言うべきところを一気に突いてくる。この部分の脚本構成が凄い。
脚本は白石和彌と高橋泉が書いている。
白石については初見なので何とも言えないが、高橋泉の脚本はいつもいつも本当に深いところまで切れ込んでくる。余談になるが、今回は高橋の長年の盟友である廣末哲万が電気屋の息子役で出演している。
白石は助監督としての経歴から「若松孝二の弟子」と一括りにされてしまうことが多い(僕自身もそういう記事を読んだ)ようだが、中村幻児監督の映像塾出身で、行定勲や犬童一心の助監督も務めてきたらしい。
本人はインタビューに答えて、演出に関して一番影響を受けたのは行定勲であるというようなことを言っている。僕もそれはなんとなく頷ける気がする。
この映画は刑務所の面会室のシーンが多いのだが、常に囚人と面会者を、台詞ごとに、ワンショットで切り返しながら撮っている。
で、最初のほうのシーンではぼんやりしていると見逃してしまうのであるが、ほとんど常に、2人を隔てるアクリルガラスに喋っていないほうの人物の影が映っているのである。これが何とも言えず怖い。
ひとりずつまとめて撮ってしまうと手っ取り早いのだが、あえて2人を常にガラス越しに並べるという面倒くさい撮り方をしている。
後ろ姿を敢えてフレームの中には収めずに、ガラスに映る影だけを入れているのである。そして、シーンによってはこの影を、喋っている人間の顔の上に被せてくる。それが如何にも透明な何かに隔てられた2人という印象を与える。
この映画には原作があって、それは小説ではなく、この映画とほぼ同じ事件を追った雑誌記者によるルポルタージュであり、つまりは実話に基づいた映画ということになる。
僕はそういうことにまるで魅力を覚えない。実話は語られた途端に100%実話ではなくなる。事実は書かれた途端に幾分事実でなくなる。一旦映画化されればファクトとフィクションの境界は見えなくなる。
要はひとつの話をどこまでまとめあげることができるか、ということでしかない。
これは2つの要素を見事にひとつに融合させた、極めて手際の良い映画であった。最初に短く見せたシーンや、誰かに証言させたことを、もう一度詳しく見せる構成も非常に分かりやすかった。
終盤近くで藤井の妻が藤井をなじる台詞、最後のシーンで木村が藤井に突きつける台詞。怖いのは残虐な殺害シーンではなく、そういう深いところで真実を突きつけてくる台詞なのである。
リリー・フランキーがあまりに嵌り役で、あまりに巧くて、見ていて笑けてしまった。
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