『憤死』綿矢りさ(書評)
【9月20日特記】 僕は巧い作家が好きだ(本来は巧くない作家なんて存在してはいけないのだが)。そうなると、勢い「書ける」何人かの作家を繰り返し読むことになる。
まだそれほど読んではいないけれど、綿矢りさはそういう作家のひとりである。この年齢の作家としては恐ろしく「書ける」作家である。
『蹴りたい背中』の冒頭の「さびしさは鳴る」に代表されるように、彼女は最初の1行に全身全霊を注ぎ込んで凝りに凝る人である。その後の作品でも「さびしさは鳴る」ほどの切れる隠喩ではなくとも、考えたんだろうなと思う書き出しの作品は多い。
ところが、この短篇集に収められた4篇はいずれもそういう形のオープニングを持っていない。もっとありふれた、と言うか、いきなりストーリーを転がし始める展開になっている。
明らかに、これは今まで僕が読んできた綿矢りさではない。
扱っている世界もそうだ。
1作目の『おとな』の、表題どおりの何とも言えない「おとな」の世界。それは子供の目から見た大人の世界を大人になった女性が語っているのであるが、今までの彼女の作品にはなかった怖さとなまめかしさがある。わずか5ページの掌編というのも、単に長いか短いかの問題ではなく、小説の構成自体ががらっと変わってくるし、余韻の深さや質も異なってくる。
この本はこういう路線なのかと思って読み進むと、2作目の『トイレの懺悔室』は男性の一人称である。少年期から青年期に至る、自分と友人と近所の「親父」の交流と疎遠を描いた、これまた怖い作品である。
3作目がタイトルになっている『憤死』で、今度は女性の一人称で、自殺未遂で入院している小学校の同級生を見舞う話を語っている。これも心の深い闇を突いて恐ろしい作品である。ただ、『トイレの懺悔室』と違って、こちらのほうの怖さというか意地の悪さは、今までの彼女の作品の底流にもなっていたものである。
それを考えると、この短篇集の中で光っているのは、やはり「おれ」が主語となっている『トイレの懺悔室』であるのかもしれない。
最後の『人生ゲーム』もやはり「おれ」が語るのであるが、こちらのほうは小道具の人生ゲームが際立ちすぎて多少先が読めてしまう面もあるし、主人公の少年期から老年期までの長いスパンを綴るために、やはり作者が少し背伸びをしているのが見えてしまう。この4編の中では一番巧くない小説だと思う。
ただ、4編を通してこういうトーン・コントロールは見事であるし、デビュー当時のような衒いのある、凝った表現は減っては来たが、やはりしっかりとした筆致の作家であることは変わらない。
話としてはいずれも小さな話である。小さな話では満足できないという人でなければ、この作家は読むに値する作家である。
『憤死』というタイトルも、小説を読み終わってから改めて考えてみると、絶妙の味がある。
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