映画『共喰い』
【9月7日特記】 映画『共喰い』を観てきた(ネタバレとまでは言わないが、少し踏み込んで書いている部分もあるので、これから観ようという人は、これを読むのは観た後にしたほうが良いかもしれない)。
原作を読んだ人もいるのだろう。あるいは僕の隣りに座った女子高生2人組のように、(恐らく)主演の菅田将暉のファンもいたのかもしれない(終わってから顔を見合わせて絶句してたけど)。僕はひたすら青山真治監督が目当てである。
芥川賞を受賞した原作は結構評判になった。いや、原作というよりも、それを書いた作家・田中慎弥の人を喰ったインタビューが評判になった。が、僕はインタビューも観ていないし本も読んでいない。どんな話かも全く知らずに観に行った。
ひたすら青山真治監督が目当てである。
映画は「俺が17のとき、親父が死んだ。昭和63年だった」というナレーションで始まる。そう、この映画は最近珍しいナレーションの入る映画なのだ。恐らく原作からそのまま抜いてきたのではないかと思われる地の文で、暫く映像が説明される。
僕はそれを聞いて、てっきり主人公・篠垣遠馬(菅田将暉)の父親・円(光石研)が死ぬところから物語が始まるのかと思った。しかし、そうではなく、どちらかと言えば円が死ぬところまでを描いた映画だった。
なんともやりきれない話である。セックスと暴力。
円はあちこちの女とのべつ幕なしにセックスがしたくてたまらない。そして、セックスしている最中に必ず女の顔を殴る。それが気持ちが良い。いや、そうしないと気持ち良くなれない。
円の妻・仁子(田中裕子)は空襲で左手の手首から先を失っている。祭りの夜に随分年下の男・円と恋に落ち、幸せに暮らせるかと思ったら、とんでもない暴力夫だった。仁子は遠馬を産んでからひとり家を出て、川沿いのボロ屋で魚屋をしている。
仁子が魚屋用の義手を外すときのスポンッという音が怖い。
円は今は飲み屋で見初めた琴子(篠原友希子)を家に迎え入れている。琴子の顔にはときどき痣ができている。遠馬はそれを見て、「頭の悪そうな女だ」と思っている。
遠馬はそんな父を憎みながらも、完全に拒絶したりはせずに、琴子と3人で一つ屋根の下で暮らしている。そして、父と琴子のセックスを盗み見しながら、自分にもひょっとしたら父と同じ血が流れているのではないかと密かに惧れている。
遠馬には千種(木下美咲)という彼女がいる。千種とは神社の神輿蔵の中で何度もセックスしているが、何度やっても千種は痛がるばかりで気持ち良くならない。
遠馬は千種と交わりながら、いつしか自分も父のように性欲の抑制が効かず、そして女を殴らないと満足できない男になるのではないかと不安でたまらない。
汚い川や下ろした魚の異臭が立ち込めていそうな川べりの田舎町で、そういうストーリーが進行して行くのだが、観客はある時点でえらいことに気づくのである──。
遠馬の一人称で語られているナレーションは遠馬を演じる菅田の声ではなく、その父を演じている光石の声なのだ。遠馬が一番なりたくない大人である円とそっくりの声が、未来の自分の声として17歳の自分を語っているのである。
この辺の仕掛けは非常に巧い。
父親を憎むと同時に父親と同じ血が流れていることを忌み嫌い、そしてそのことが不安でたまらなくなるという心境が分かるだろうか? 育った環境によっては理解できない人もいるのかもしれないが、僕は非常によく解る。自分も同じ思いで育ってきた。
しかし、僕はこの円という男を単なる変質者、異形の者という眼で見たかというとそうではない。
性的嗜好を深化させるとそれは必然的に非日常性に向かう──というのが僕の持論である。その非日常性が社会性の範囲に収まる者もいればそうでない者もいる。もしも、強姦しなければエクスタシーが得られない、死体とでなければ交われないという形に出てしまったのであれば、それはとても不幸な人である。
殴るのは法律や道徳に反するからいけない、などと言ってもどうしようもないのである。何故なら性交は社会的な行為ではないから。そこに、ただ殴るという行為の非日常性にたどり着いてしまった円の不幸がある。
そういう眼で僕はこの映画を観ていた。だから、円も遠馬も痛々しくて見ていられない存在だ。それが胸に刺さってくる。そして、それに対して、彼らを取り巻く3人の女性(仁子、琴子、千種)の、なんと優しいことか!
これはひょっとしたら女性を描いた映画なのかもしれない。
ひとつひとつのカットが結構長い。そして、それらはカメラの動きと人の動きを組み合わせて、事前にしっかりと組み立てられたものである。そのデザインされた構図の中で、役者たちの芝居をじっくり見せてくれる。
原作の田中慎弥は『EUREKA ユリイカ』と『サッド ヴァケイション』を観ていて、「青山真治さんがやってくれるんなら大丈夫だ。あとはもうお任せしよう」と思ったそうである。──原作者と制作者の幸せな結婚。
そして、「『共喰い』に書かれた人物たちが映画で立ち上がってくるのを実感しました」と言っている。映画は成功である。
そこには映像だけではなく、匂いや空気の淀みや湿気まで描かれている。
最後のほうの、遠馬が仁子に面会するシーンと、遠馬と千種のセックス・シーンは、原作になかったものを脚本家の荒井晴彦が書き足したものだという。これがまた秀逸である。
いきなり「あの人」と言われても、昭和63年というだけで誰のことだが分かるのはそれなりの年輩者であろう。その「あの人」が誰のことなのか分かっても、若い人には何でそんな人が出てくるのか分からないかもしれない。
でも、荒井はあえてそういう形で、原作になかった時代性をねじ込んできた。果敢なトライだと思う。そして、映画は予期しないところでポンと終わる。とても良い終わり方だと思った。
この映画は公開前に、ロカルノ国際映画祭で2つの賞を獲った。そりゃ、受賞してしまうよな、とつくづく感じさせられる秀作だった。
★この記事は以下のブログからTBさせていただきました。
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