随想: 2020オリンピック東京開催決定
【9月8日更新】 佐藤栄作がノーベル平和賞をもらったのは僕が高校生の時だった。
その高校で僕らに漢文を教えていたT先生は気骨のある人物だった。僕らが卒業した後だったけれど、彼は仲間たちと一緒に、1票の格差による不平等を憲法違反だとして国を訴え、僕らを驚かしてくれた。
佐藤栄作が受賞した翌日の授業でT先生は言った。
湯川博士が日本人として初めてノーベル賞を受賞した時には、小学校の校長先生は生徒たちを集めて、「みなさん、今日は日本にとって誇らしい日です」と胸を張って言ったものです。
今の小学校の校長先生たちは、胸を張ってめでたい日だと言えるんでしょうか。
今日、2020年のオリンピック開催地が東京に決まった日に、このことを思いだした。
思えば湯川秀樹から江崎玲於奈までは、日本人のノーベル賞受賞を国民はみんな素直に喜び、祝った。いや、福井謙一以降の受賞者についてもそうだ。ひとり佐藤栄作だけが、祝う人と唾吐く人に別れた。
東京、札幌、長野までのオリンピックも、概ね国を挙げて開催決定を慶んだ。今回は選考中から異論があった。福島の原発事故処理の問題に絡めての発言が多かった。
佐藤栄作の問題と東京五輪の問題は、少し色合いが違う。そのことは解っている。だが、今朝の決定のニュースに触れて、僕は即座にこのことを思いだした。
賛否が顕在化するためには、いろんな要素がある。その中の1つの要素にすぎないが、国民がいろんな意見を持つようになり、いろんな意見を持って発言することが許されるようになったということがある。
それは素晴らしいことである。一方で、たとえそれが単純な発想に乗せられたに過ぎないにしても、昔のようにみんなで同じ方向を向いてひとつの事に当たるということが少なくなったのを悲しむ声もあるだろう。
まあ、だけど、それはそれで良いのだと思う。今このタイミングでここ日本でオリンピックを開催することの是非についてはいろんな考え方があってしかるべきである。いろんな考え方があることが健全な社会の証であるとも言える。
そして、いや、しかし、と言うべきか、その多様性は、一旦開催すると決まってしまったオリンピックをみんなで成功させ楽しもうとする心と、必ずしも背反するものでもないのではないかと思うのである。
それが、オリンピックと佐藤栄作の違いであるのかもしれない。オリンピックから佐藤栄作へと飛んだ僕の思考は、結局そこに落ち着いた。
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