随想2: 2020オリンピック東京開催決定
【9月11日特記】 汚染水がじゃぶじゃぶ漏れているような時にオリンピックを招致している場合か、と考えたのも確かだが、結局東京に決まったとなると、それを素直に喜び、あと7年の間にいろんなことを整えて、みんなが良かったと思えるようなオリンピックにしたい、と思ったのも確かである。
しかし、「オリンピックに反対するような奴は日本人じゃない!」とまで言われると、それはやっぱり違うだろ、という気になる。
知らなかったのだが、ネット上にはこういう言説が溢れているとのことである。それではまるで戦争中に「非国民」というレッテルを貼って回った指導者たちと同じではないか?
何度か書いたことだけれど、僕は多様性に対する許容力の大きさこそが社会の成熟度であると思っている。
自分と異質なものを排斥する心というのは一体何なのだろう?
残念ながら多かれ少なかれ他人は自分と異質なのである。しかし、少なくとも僕らの若い頃は、その異質なものを前にして、異質なものに屈しそうになりながらも、必死でその異質な存在を説得しようとしたものだ。あるいは自分との接点を探ろうとしたものだ。で、よく失敗した(笑)
失敗してどうするかも自分に対する試練である。まあいいや、と許して適当に距離をおきながらつきあうのか、これはいくら話しても無駄だと、近寄らないようにするのか?
しかし、生きるということは他人と触れ合うことである。他人の異質な部分を悉く排斥してしまうと生きることはできないはずだ。
にも拘わらず、異質なものを排斥し、同質なものとつるんで行動することを自分の行動規範にしている人がいるようなのである。
ただ、どこをどう探しても全ての点で自分と同質な人間がいるわけはなく、どこかの点では必ず異質な部分があるのである。その矛盾を超えるため、彼らは多分そういう時には同質であるかの振りをするのだろう。同質である振りをしながら一緒になって異質なものを排斥するのである。
生きることが息苦しくなるのはそういうことのせいでもあるのではないだろうか。
大事なのはひとつのポイントで全てを判断してしまわないことだ。
僕は一色ではない。きみも一色ではない。僕はきみに、あるいは、きみは僕に白か黒かを問うことはできないのである。
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