『キミトピア』舞城王太郎(書評)
【8月16日特記】 書き下ろし3編を含む7つの作品からなる短編集。短編集と言っても小さな活字で合計400ページを超える分量だから、それぞれの作品も決して短くない。
僕は舞城王太郎の熱狂的なファンというわけではないが、それなりに好きでちょこちょこ読んではいる。そんな中、今回は今まで知らなかった舞城王太郎との出会いの連続で、彼の力量に改めて驚かされてしまった。
初っ端の『やさしナリン』なんて、作家名を明かされずに読んだら、まさか舞城作品だなんて思わないだろう。
「普通名詞というのは抽象的概念と同じで、それそのものとしては実在しない」という、色彩を抑えた硬い書き出しで始まる『やさしナリン』は、主人公・中辻櫛子と彼女の夫、そしてその親族たちとの心の行き違いの物語である。舞城らしい非日常的な事件はあまり派手には起こらない。
そこでは名前の問題から始まって、名付け/ネーミングについて、そして、生きて行く上でものごとをどう規定するかという非常に日常的な問題を取り上げている。会話や発想のズレが如何にもありそうな話なのである。
櫛子は極めて論理的な女性だ。正しいことを言っている。なのに、あるいは、だからこそ、夫や義妹たちはそれを感情的に受け入れられない。読者によっては彼らと同じように櫛子に反感を持つ人もいるのかもしれないが、僕は彼女に圧倒的な共感を覚えた。
2作目の『添木添太郎』もメインの登場人物である宮本槻子の名前、特に「槻」という漢字が与えるイメージから書き起こされる。語り手は槻子ではなく、彼女の同級生・島尾新一である。この話では、槻子は毎日体の一部が麻痺して消えてなくなってしまうという、舞城らしく現実離れした自由な設定がある。
そして、てっきり槻子と新一のラブストーリーかと思っていたら、知らぬ間に話の中心は新一と緋沙子になる。最後に至るまでに槻子の扱いが少しずつ変わって行くのだが、全体がひとつの寓話めいていて非常に深い。なんだか解らないけど、大人になる過程でこういうことが必要になってくるような気がする。
『すっとこどっこいしょ。』は小豆をコマメと読んでいたすっとこどっこいの中学生・梨木と、同級生の金谷と山田雅子と後藤枡琉という男子・女子2人ずつを中心とした物語。こちらもやたらと七面倒臭い成長物語風なのだが、途中から刃傷沙汰になったり、その映像がネットに上がったりと、激しい展開になりめちゃくちゃ面白い。
続く『ンポ先輩』の表題になっている高尾先輩のあだ名の由来はチ◯ポなのだそうだ。こちらは恋愛を巡るストーカー行為でどろどろの前半であるが、読み始めて2ページ目に出てくる「ごめん、私空気の奴隷じゃないの」という主人公・茅子の台詞に思わず快哉を叫んでしまった。
で、2人の女性ストーカーが出てきて、心の穴の虫の話になり、図形が出てきて、言葉の話に戻る。この展開がものすごい。
5作目の『あまりぼっち』は、毎晩自分の分身が生まれては自分の部屋にやってきて、翌日消えてしまう。ところがまた次の分身が現れて…というとんでもない毎日を繰り返すSFのような怪異譚のような話に離婚が絡めてある。この話の飛び具合、移り具合も大変なもので、この短編集も半ばまで読み進むうちに、いつの間にか僕らはいつもの舞城ワールドにどっぷり浸かっていることに気がつく。
次の『真夜中のブラブラ蜂』は壮絶な話で、子供が大学生になって手を離れた主婦・網子が、何をやろうかと本屋に向かう途中で急に自転車がほしくなり、駅前で買った翌日から取り憑かれたように自転車に乗って、家族を放ったらかして、目的もなくあちこち走り回り、それでも満ち足りず、どんどん過激な方向にのめり込んで行く話である。当然夫や息子との不和が生まれるのだが、この辺の行き違いの会話の描写が本当に上手い。
そう、この短編集全体を通じて、正しいことを言っているのに話が通じないという状況を、一貫してこの作家は描いている。しかも、絶妙の筆運びで。
最後の『美味しいシャワーヘッド』は芥川賞候補になった作品である。小澤という主人公の男だけは共通だが、ころころと場面と登場人物が変わって一体これは何の話なのか?と言いたくなるほど気ぜわしい展開なのだが、これこそ舞城の真骨頂である。
こんなてんでばらばらの話を読まされて、何のこっちゃと思いながら、最初に出てきた小澤を好きな毛利樽歩という女の子が最後にまた出てくる巡り合わせもあるが、なんだか心の深いところをぐっと握られたような読後感を持ってページは尽きるのである。
ああ、舞城王太郎恐るべし。今回はそんな感じの短編集であった。
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