映画『風立ちぬ』
【8月3日特記】 映画『風立ちぬ』を観てきた。
宮崎駿作品は正直あまり僕の好みではない。観たいという気にならないのである。観ないから当然好きでも嫌いでもない。ただ、観ようという気が起こらないのである。
権威とか大家とかいうものに無条件の反発を覚えることが多い僕の性癖によるのかもしれない(ただ、多いとは言え、必ずではない。例えば手塚治虫には何の反感も抱いていない)。
それでナウシカも、トトロも、もののけ姫も観ていない。テレビで放送されてもやっぱり観ない。千と千尋は観た。これは面白かった。でも、だからと言って次の作品も観たいとか、遡って昔の作品も観てみようという気にもならなかった。
この作品も、悪く言えば、単なる暇つぶしに観に行ったに過ぎない。ところが、この映画には完璧にやられてしまった。参った。完敗である。
まず、アニメというものの表現力の進歩にはただただ舌を巻くばかりである。ここまで来たか!
それは CG とか 3D とかいったところだけで進化を遂げているのではないことを思い知った。個々の作画と言い、構図と言い、コンテと言い、なんという豊かな表現の連続だろう。
僕はかねてから、表現というものは本物らしいところと美しいところの両面がなければならないと思っている。それはあるがままに描くということと、感じたままに描くということであり、その2つが融け合うことで初めて客観と主観の境界を超え、「伝える」という境地に達するのである。
この映画ではその両方が見事に実現している。雲も雨も、風の梵も、人の動きも、飛行機の滑空も…。リアルなものとリリカルなものが、同じ1枚のセルの中に表現されているのである。
特に人間の、人間に対する反応(ことばや仕種や、あるいはもっと内面的な変化など)が本当に見事に描かれている。まさに琴線に触れてくる。
零戦の設計者・堀越二郎を主人公に据えて、そこに作家・堀辰雄を混ぜあわせて、堀辰雄の代表作と同じタイトルで作り上げた、大正~第二次世界大戦期の伝記風の作品である。
これを映画化することを躊躇っていた宮崎駿に、ある女性スタッフが、「子供はわからなくてもわからないものに出会うことが必要で、そのうちにわかるようになる」と言って彼の背中を押した、という話がとても印象的だ。
そう、これは子供でなくても、大人が見ても、ストレートに何かを「分かる」作品ではないのだ。世界や人生はそんなに一筋縄では行かないのである。
これも僕がかねがね言っていることだが、この複雑な世の中で僕らが求められることは、「いろいろややこしいけれど、要するにこういうことだ」と細部を切り捨ててきれいにまとめることではなく、複雑なものを複雑なものとして一旦丸呑みし、自分の中で分解・分析した後に必ず再構築し、そのまま全体像として捉えることである。
だから、この映画を観て「要するに◯◯は」と話し始めてしまった人は、この映画をもう一度ご覧になったほうが良いと思う。
技術、夢、戦争、時代、災害、病気、結婚、友情──描かれるものは山ほどあるが、決してそのどれかがメインにあるのではない。
僕らの目に入ってくるのは1枚1枚のセルに描かれた平面の画像だが、その奥の深さを、その流れの確かさを、そして隠れた複雑さを、僕らがどこまで感じられるかが勝負である。
久しぶりに圧倒的な作品に出会った。
★この記事は以下のブログからTBさせていただきました。
Comments