『幸福の遺伝子』リチャード・パワーズ(書評)
【7月10日特記】 最初に思ったのは、今までこんなに読みやすいパワーズはなかった!ということ。
学際的に圧倒的多岐にわたるテーマと、複雑に入り組んだ難解な構成に、頭クラクラしながら読むのがある意味パワーズの醍醐味である。だから、そういう意味では物足りないと言うファンもいるかもしれないが、逆に読むのに難渋するような作家はまっぴらだという方がもしもパワーズを読んでみようというのであれば、この作品を選べば良い。
話はとても単純だ。主人公はラッセル・ストーンという男。元々は小説家として結構売れていたのだが突然書けなくなって、今は添削教室の先生や短期の大学講師などで糊口をしのいでいる。その彼の生徒として現れたのがアルジェリア出身のタッサという女学生。
彼女はとてもポジティブで、いつも幸せそうで、そして、何よりも不思議なのは周りにいるみんなまで幸せな気分にしてしまうこと。
ラッセルは感情高揚性気質(ハイパーサイミア)という言葉を聞きかじって、彼女はそれではないかと思う。それが伝わって、彼女は他人よりも幸福を感じる遺伝子を持っているのではないかという噂が広まってしまう。
ここまで聞いて、どう思います? およそこんな設定で小説を書く作家がいるだろうか? でも、それを見事に展開していくのがパワーズの力量なのである。しかも、今回は途中で何十ページも戻って読み直さないといけなくなるような入り乱れた構成ではない。
やがて彼女は、そういう遺伝子について研究している学者の目に止まり、インタビューを受け、テレビに出演し、ネット上に広まってしまい、全米中のあらゆるメディアともっと幸せになりたい人たちから追い掛け回され、もうむちゃくちゃな状態になってしまう。
ラッセルと、ラッセルの大学の女性カウンセラーのキャンダス、遺伝子学者のトマス・カートン、テレビの人気ドキュメンタリ番組の司会を務める女性ジャーナリストのトニア・シフらが、見事なリアリティを持って、アルジェリア人の人生に絡んでくる。
そして、もうひとり気になる登場人物は、この本の1行目から「私」という一人称で語りかける何者か。これが誰なのかは最後まで伏せられている。いや、最後の最後まで明示的には語られない。でも、遅くとも最後のページでは、ああ、そうだったのか、と思う。
読むたびに新しい発見があると言って良いパワーズだが、この小説は、このまとめ方は、そして、きっちりまとめきらずに終わるこの余韻は──本当に舌を巻く、ものすごい小説である。
何度も書くが、こんなに読みやすくて解りやすくて、素直に面白いパワーズは前代未聞である。もっとも、読みやすいと言いながら、僕は1ヶ月では読み終わらなかったが(笑)
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