『想像ラジオ』いとうせいこう(書評)
【7月17日特記】 いとうせいこうの小説を読むのは処女作の『ノーライフキング』以来だから四半世紀ぶりということになる。奇しくもそのいとうせいこうがこの作品で芥川賞を獲り逃した日に、僕はこの小説を読み終えて書評を書いている。
最初の感想としては、ずいぶん難しいものを題材に選んだなあということ。時宜を得ているだけに、なおさら難しい題材である。
話はいきなり「想像ラジオ」のアークっていう男のDJから始まる。それが何なのかは最初は全然わからない。ラジオって名がついているけど、どうもラジオではない。それを聴くのにラジオという機械を必要としないのだから。
そして、杉の木のてっぺんにひっかかってしゃべり続けているDJアークなる人物が何者なのかも分からない。しかし、読んでいるうちにそれが、東日本大震災の津波の被災者だと分かる。
こういうテーマを扱うのは難しい。
まさにこの小説の登場人物であるボランティアの青年たちが悩んでいるように、「何日かボランティアをやったあと暖かい寝床のある街に帰って行く奴に何が分かる?」と責められ、疎外感を覚える。
これを読んだ被災者から同じことを言われる可能性を考えると、作家の筆も鈍る瞬間があったのではないだろうか?
そして、こういうのは同じく作品を語り書評を書こうとする者にとっても、なかなかしんどい対象である。褒めると考え方が甘いと責められそうで、貶すと心が冷たいと咎められそうである。
そんな作品をよく書いた、というか、よく書く気になったなあというのが僕の第一印象だった。何が彼にこれを書かせたのだろう──日本人としての何かなのか、表現者としての何かなのか…。
ただ、出だしは非常に上手いと思うし、最後を2ちゃんねる風にまとめて終わったのも悪くないアイデアだと思うが、しかし、こういう小説は、ある種直線的な部分を不可避的に孕んでしまうがゆえに、どうしてものっぺりしたものになりがちであり、やっぱり中盤から終盤にかけてののっぺり感は拭えないと思う。
まあ、でも、たとえのっぺりしたものになるとしてもこれを書くのだ、とするのが、ある意味で作家というものの性なのかもしれない。
小説としては、申し訳ないけれど、僕はそんなに褒める気にはならない。だけど、よく取り組んだなあという敬意は持った。死という重いテーマを扱いながら、なかなか軽やかで爽やかな後口である。
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