やりたいこと
【7月28日特記】 昨日「うめきた未来会議 MIQS」を聴きに行ってきたら、質疑応答の時間に女子学生が質問に立ち、「自分も壇上の皆さんのように、何か他人がやらないようなことをやりたいと思ってこういうイベントにも参加しているのですが、でも、自分にはこれができるというようなこともないし、何がやりたいのかもよく分からない。どうすれば良いのでしょう」と訊いた。
壇上のプレゼンテーターのひとりであった野田金型有限会社取締役社長の堀口展男氏は、「それは若い世代に対して僕らが心配していること」と前置きした上で、「あなたの場合は今日ここに来ているということが1つの出発点である。いろんなところに顔を出して、いろんな人とコミュニケーションをしている中で、何かが見つかってくる」というような回答をしていた。
録音していたわけでもメモを取ったわけでもなく、あくまで僕の記憶に基づいて書いているので、ちょっとニュアンスは違っているかもしれないけれど…。
堀口氏の意見に僕も同意。壇上の辻野晃一郎氏も、「意見の違う人とぶつかってもとにかく何度も何度もコミュニケーションを重ねること」の重要性を指摘していた。日本人はとかく議論を中途半端にやめて諦めてしまいがちだと言う。
そういうことに加えて、僕が彼ら若い世代に言ってあげたいと思うことが1つある。
それは、「自分が何をやれば良いのか」「何をやりたいのか」というようなことは、探して求めるものではないということ。それは自然に出てくるものである。
勘違いしないでほしいのは、「そういうものは誰でもいつしか自然に出てくるものである」と言っているのではないということ。僕が言いたいのは、「探し求めたって見つかるものではない。それは自然に出てくるものだ」ということである。
だから、もちろん、死ぬまでそういうものが見つからない、出てこない人だっているだろう。だからと言って「自分探し」をいくらやったって見つかるものでもない、と僕は思っている。
とは言え、やりたいことが見つからないからといって、何もやらないわけにはいかない。だから、特にやりたいわけでもなかったところに就職しなければならないような場合もあるだろう。
しかし、そんな就職先で何年か働いているうちに、いつしか自分がやりたかったこと、自分ならできそうなこと、自分がやらなければと思えることが不意に見つかることだってあるのである。
もちろん、意に染まない就職先で、やりたいことなんて一生見つからないことだってあるだろう。それは仕方がない。
だからと言って「自分探し」をしたって仕方がないのである。そもそもそれはどこにあるか分からないのだから。
大事なことは、常に外界との接触面積を広く保っておくことである。そのことによって何かが不意に見つかるのである。やりたくもない職場だって、その接触面積のうちの一部である。
2008年のタナダユキ監督の映画『百万円と苦虫女』(蒼井優、森山未來主演)でこんな台詞があった。
亮平「自分探しみたいなことですか?」
鈴子「いや、むしろ探したくないんです。探さなくたって、嫌でもここにいますから」
嫌でも自分はここにいる。でも、やりたいことはここにはない。それはどこかからやってくる(かもしれない)。自分が動いていれば。
Comments
こんばんは。興味深く読ませていただきました。
私は中学生の頃、新井素子さんの小説が好きだったのですが、その中の登場人物が“お茶くみ”という仕事について話している場面がありました。
たかがお茶くみ、されどお茶くみ。その人はとても繊細に、そして丁寧に“お茶くみ”を追求していて、それがすっごい楽しそうで、かつ誇りを感じているような印象を受けたのです。
まだ進路に迷っていた年頃の私だったのですが「誰にでもできる仕事であっても、そこに私のすべきことを見出すことができる」ということがとても救いになったのを思い出しました。
それが“自己表現のお茶くみ”だったり、“自分探しのためのお茶くみ”だったりすると、勘違い娘になっちゃうわけですが(笑)。
Posted by: リリカ | Monday, July 29, 2013 22:00