随想: 文章論
【6月10日特記】 昨夜、テレビである流行作家のドキュメンタリを観た。僕にとってはあまり読む気にならない作家だ。
名前を書いても良いのだが、それが誰かということはこれから僕が書こうとしていることの本質に関係がないし、名指しで書くと何かと誤解を生みそうなので伏せておくことにする。
もちろん僕はその作家を貶そうというのではない。さすがに1冊たりとも読んでいない作家を貶すほど僕は果敢ではない(笑)
ただ、読む気になるかどうかという問題である。それも世間一般ではなく、ただ僕が読む気になるかならないかという、極めて個人的な話である。
その番組の中で、その作家の魅力のひとつとして挙げられていたのが「読みやすい」ということだった。
僕はもうそれだけで読む気が完全に失せてしまった。僕は読みやすい本を読みたくはならない。いや、もう少し正確に言うと、「読みやすい」ということが売りになるような作品は読みたくならない。
そんなことを書くと、すぐにその作家のファンから、「別に作家自身はそんなことを売り物にしていない」などという反論が来そうだが、誰が売りにしているかということにはそんなに意味はない。
ただ、それが売りになるような(あるいは売りにされるような)文章は、もうそれだけで、なんか読む気にならないのである。それを天邪鬼と言われてもスノッブと言われても仕方がないのかもしれないが、ともかく僕は読みたくならないのである。
それは僕が「泣ける映画」や「泣ける小説」を敬遠するのと少し似ている。いや、泣けたっていい、文章が読みやすくったって別に構わない。ただ、それが売りになるようなものは観たくならないし読みたくならないのである。
いや、こう書いたほうが比喩としては適当かな。
例えば、「食べやすい」のが売りの食べ物を食べたいか? いや、僕の食べたいのはおいしい食べ物である。
僕はうまい文章を読みたい。ただし、うまい文章というのは、読んでいる時に「うまい!」と感じさせる文章では断じてない。
うまい文章というのは却々ひと言では語れないが、例えば、読んでいる時には作家の存在を完全に消しながら、読み終わった時には作家の存在感をくっきりと示しているのが、うまい文章である。
そういううまい文章が読めるのであれば、僕は読むのにどんなに難渋したって構わない。そういう文章を書くために、凝ってほしい、重ねてほしい、うねって駆け抜けてほしい。──僕はそう思う。そういう文章を僕は求めるのである。
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