映画『百年の時計』
【6月15日特記】 映画『百年の時計』を観てきた。
金子修介監督の作品はここのところマイナーな感じの上映が多く、気がついたら終わっていて(いや、いつやっていたのかも分からなかった映画もあって)2~3本立て続けに見逃してしまった。
今は他にも観たい映画があるのだが、もうこれ以上金子修介を見逃したくない、という思いがこの映画に向かわせた。
ところで、これは本来であれば、僕にしてみればあまり見る気の起こらない類の映画である。
「製作」とクレジットされているのは「さぬき地産映画製作委員会」である。ま、ひとことで言うと「ご当地映画」ということになる。
おまけに「ことでん」(高松琴平電気鉄道)開業100周年記念である。恐らく、「ことでん」の全面的なロケ協力と引き換えの上での話であるが、物語に「ことでん」をかなりの比重で盛り込むことが条件であったはずだ。
そういう映画だから、これはちょっとわざとらしい作りの映画である。商売臭い、あざとい感じが避けがたくなる。無理やり感もないではない。あの「ことでん」の車両を使ったインスタレーションも、映画だから自然に描けているが、実際にああいうイベントにしつらえると随分寒いものになるだろうなと思う。
加えて、出てくる人物が良い人ばかりで、台詞も時々「どうだ!」と言わんばかりの臭いものが出てくる。そして、高松市美術館の学芸員役で主演の木南晴夏も、高松出身の往年の世界的アーティストを演じたミッキー・カーチスも、木南の父親を演じた井上順も、どことなくなんか浮いた感じの演技なのである。
でも、それにも拘わらず、なんか割と良いのである。見ていてすーっと入って行けるし、なんだか心が優しくなる。なんなんだろうか、これは?
涼香(木南晴夏)は憧れの芸術家・安藤行人(ミッキー・カーチス)の回顧展を企画する。安藤を高松に呼び寄せるところまではこぎつけたが、そもそもが偏屈おやじであり、しかも、今世紀に入ってから鳴かず飛ばずで自信をなくしている安藤は、回顧展に出展する新作の制作に本気で取り掛かろうとしない。
なんとか説得しようとする涼香に、安藤は自分が19歳で高松を離れる時に、電車の中で立派な懐中時計を自分にくれた見知らぬ女性が誰だったのかつきとめてくれたらやっても良いと言う。
安藤の若い頃を近江陽一郎が演じている。そして、安藤に時計をくれた謎の女性を中村ゆりが演じている。この2人がとても良い。この2人による瑞々しい回顧シーンによって、この映画はピシっと締まってくる。
やがて、安藤の青春時代が語られ、他の登場人物のいろんな思いも絡まってくる。それを安藤が回顧展当日に行った車中でのインスタレーションという形で映画は表現してくる。
僕らはそれを概ね絵空事だと思って見始めるのであるが、いつの間にか製作者側が仕掛けた観念的・哲学的な世界に絡め取られてしまうのである。
今回プロデューサーの金丸雄一と金子修介監督による(しかし、出演者は誰も来ない若干淋しげな)舞台挨拶があったのだが、そこで金丸Pがこんなことを言っていた。
ご当地映画といっても、往々にしてそれは単なるご当地のプロモーションに終始していたり、あるいは逆にただの地方ロケ映画になってしまっていたりするものである。
そう、彼らはそこに留まらないことを目指して、必死でロケハン、シナハンを重ねたと言う。
そして、パンフに映画監督の七里圭氏が書いているように、「たまげました。大胆不敵と言いましょうか。この作品は、現代アートとは何かを、真っ向勝負で映画にしようとしているのですから」──まさにそういう映画になっていた。
金子監督はこんなことを言っていた。
地元の関係者から「(同じく香川県でロケをやった)『二十四の瞳』を超える映画を作ってください」と言われて、ものすごいプレッシャーだったけど、「フェリーニを目指します」なんて答えてました(笑)
なるほどなあ。いや、僕はフェリーニなんてあんまり知らないけど、でも言ってる感じはよく分かった。そうか、あのインスタレーションは『8 1/2』だったのか、と妙に納得してしまった。
ローカル鉄道とか田園風景というのは、それ自体が画作りにおいて非常にポイントの高い素材である。そこに時代をかぶせ、いろんな人の人生をかぶせ、まあ本当にこんなご当地ものに、よくぞここまで重層的な構造を持ち込んだなあと感心するのである。
そんなにすごい映画ではない。大ヒットもしないだろうし賞も獲らないだろうと思う。しかし、じわじわと印象の強い映画である。見終わってみると、ミッキー・カーチスのカラカラと笑う声が脳裏に残っている。不思議な旅をした気分である。
« 石 | Main | 『放送禁止歌』再び »
Comments