映画『中学生円山』
【5月19日特記】 映画『中学生円山』を観てきた。宮藤官九郎の3本めの監督作品(僕はそんなに宮藤ファンでもないのだが、何故だか全部観ている)。しかし、劇場はガラガラ。もしこれがあまりに馬鹿馬鹿しい内容だと思われたからだとしたら、それは宣伝の失敗である。
確かに馬鹿馬鹿しい。でも、誰でも想像がつくと思うが、これが恐らく宮藤官九郎のクリエイティビティの原点なのだ。そう、僕も似たり寄ったりの中学生だった。
主人公の中学生・円山(平岡拓真)が自分で自分のちんこを舐めたいと思うのが物語の発端である。その円山が住む団地の1階上の部屋に越してきた変人・下井(草彅剛)との妙な心の交流を描いた物語である。
そして、宣伝的にはちんこを舐めるエピソードがかなり前面に打ち出されているわけだけれど、冒頭のナレーションの最初の一語が「妄想」であったように、この映画は性的なものだけではなく、妄想全般を捉えたものなのである。
そして、中学時代のこんな妄想こそが、後に劇作家になり脚本家になる宮藤官九郎を育てだのだと僕は思う。
だから冒頭のナレーションにしてもどこか厳かであり、妄想を抱く全ての中学生に対してどことなく優しさがあり、いわば妄想の尊厳が保たれているのである。
そして、物語の終盤で円山の妄想は部分的に本物になってしまう。それが僕にはある種、宮藤自身の Dreams come true を象徴しているように思えてならない。
宮藤自身もこの本でそれほど笑ってもらおうとは思っていないのではないか? 結構本人は真面目なのではないか?
そして、真面目だからこそ随所で笑える。が、苦笑である。爆笑はしない。そして、舐めるための自主トレのシーンが続くと見ていて時々飽きてくる(笑)
しかし、先ほど書いたように、これが作家を育てた妄想であるという裏テーマを意識し始めると、この物語はものすごく深いものになる。
結構有名な役者が意外に多く出てくる中で、圧巻なのは遠藤賢司が演じる認知症の爺さんである。画面を見ながら、「あれ? この爺さん自分でちゃんとギター弾いてるなあ」と気づいてから、それがエンケンだと気づくまでにそんなに時間はかからなかった。
明示的に何かのメッセージにはなっていないのだが、この人物の絡み方といい台詞といい、彼のお陰で映画は途轍もなく意味深長なものになったと思う。
そもそもが妄想だから、この映画は青春ドラマからヒーローもののアクションに転じ、そうかと思うと西部劇やら韓流ドラマやらよろめきドラマまで出てきて非常に変化に富んでいる。だから、カメラワークを含めて変に見せ所が変化する変な映画なのである。
妄想というものの馬鹿馬鹿しい本質を見事に突き詰めた馬鹿馬鹿しい映画である。
あれ? 馬鹿馬鹿しいのか?
うん、まあ、馬鹿馬鹿しくないかと言われると否定できないのは確かである(笑)
パンフに山田太一などという大御所の脚本家が文章を寄せている。僕が読むとこれはかなりポイントを外しているように思えるのだが、しかし、なにはともあれ、こんな映画に山田太一が推薦文を書いているということがすごいと思った(笑)
彼はこう書いている:
これはもう「小学生円山」でも「高校生円山」でもない。絶対に「中学生円山」でなければならない映画だと(以下略)
この点はまさにその通りである。
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