『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』村上春樹(書評)
【4月25日特記】 帰ってきた感がある。村上春樹が帰ってきたのか、『風の歌を聴け』を読んだばかりのころの僕が帰ってきたのかは分からないが。ともかく妙な既視感がある。それは僕が既に知っている村上春樹であり、実は今まで気づいていなかった村上春樹なのである。
この小説では『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』や『1Q84』などとは違って、それほど不思議なことはそれほど頻繁には起こらない。でも、全く起こらないわけではない。村上春樹は、世界では不思議なことが起こるのだということと、不思議なことは何も起こったりはしないということを同時に書いている。
そこにあるのは両義性である。それはある意味、村上春樹のデビュー以来のテーマであったのではないかと、今になって思うのである。
多崎つくるは大学2年生の夏に、高校時代の親友たち4人に突然切り捨てられる。それぞれ苗字に赤・青・白・黒の漢字が付いた2人の男と2人の女の友だちに、切り捨てられる理由を聞くことも釈明することも、いや、それどころか会うことも連絡をとることさえできなくなる。その苦悩と、そこからなんとか抜けだした彼の回復が小説の前半で語られる。そして、それは両義性の片側である。
小説の後半で、つくるは昔の友人たちを16年ぶりに訪ねる旅に出る。そして、そこで、「色彩を持っている」4人の友人たちの側から当時の彼が語られる。それが、両義性の反対側なのである。
僕らはみんな自分の中に両義性を持っている。そして、彼の両義性と僕の両義性は同じかと言えば決してそうではない。だから、僕らは彼の両義性と僕の両義性の間で揺れることになる。そうやって僕らの人生はどんどん複雑なものになって、もう何が両義性だか解らないところに絡め取られてしまうのである。
でも、大事なことはそういう全体像に気づくことなのである──それが僕がこの小説から読み取ったイメージのうちのひとつである。
ページを繰るうちに終盤にさしかかり、残りの枚数が少なくなってくるに従って、僕は読みながら、「ああ、これだけのページ数しか残っていないとなると、もうここまでのページで村上春樹が書いてきた謎を全て解き明かして、ここまで脇道に逸れながら展開してきたストーリーに決着をつける形で終わるのは無理だな」と悟った。そして、そうか、人生にそういう決着のつけかたはそうそうできるものではないのだと思った。果たして読み終えた時まさにその通りの余韻があった。
これは村上春樹の代表作になるなと思った。「代表作かどうかなんて、お前ごときが決めることではない」という意見もあるかもしれないが、僕は断じてそうは思わない。代表作かどうかは僕が決めるのである。もちろんそれは他のみんなにとっても代表作であるということではない。村上春樹の僕にとっての代表作なのである。それは両義性の片側である。そして、僕はそのことに気づいている。だからこうやって生きて行けるのである。
両義性があるからこそ、僕らの世界は誰かの世界に繋がっているのかもしれない。
大きな大きな小説だった。
Comments
yama_eighさんが書評を書かれるの、楽しみに待っていました。
両義性の視点、興味深いです。ちゃんと理解できているかどうか分からないけど、この視点でもう一度春樹作品を読み直してみたくなりました。
>大事なことはそういう全体像に気づくことなのである。
ほんとそうですよね。深く頷きながら読みました。
辛口なレビューも多いですが、私はこの作品、間違いなく傑作だと思っています。とても好きな作品で、これを多くの人が(たとえブームに乗っかる形であったとしても)読むということを嬉しく思っています。
私もレビューを書いたので、トラックバックを貼らせてもらおうと思ってやってみたのですが、うまくできたか自信がありません^^;。
Posted by: リリカ | Thursday, April 25, 2013 22:26
> リリカさん
記事をアップした途端にTBが飛んできたのでびっくりしましたよ。んで、初めてリリカさんのブログも拝見しました。
リリカさんの書評もとっても良いと思いました。なので、僕もトラックバックさせてもらいました。
Posted by: yama_eigh | Thursday, April 25, 2013 22:34