『話の終わり』リディア・デイヴィス(書評)
【3月13日特記】 初めて読む作家である。作家で選んだのではなく訳者である岸本佐知子の名に惹かれた。ただ、僕にはちょっとしんどい本であった。
すごく下世話な表現をしてしまうと、これは最初から最後まで、ある女性の失恋に際しての、泥沼のような未練についてくどくど書かれた本である。
30代半ばの作家であり大学教師である主人公の女性が、12歳下の学生とつきあうようになり、やがて時々喧嘩するようになり、そして暫く離れてはまたよりを戻すようになり、遂にはどうしようもなくなって別れてしまう。
しかし、完全に別れてしまった後も、彼女の頭の中から彼の姿は出て行かない。彼女はほとんどストーカーに近いところまで行ってしまう。彼女の内面を綴った文章は、とても良くない表現だけれど、もうどうしようもなく「女々しい」のである。
中には自分にもこういう部分があると共感を覚える人もいるのかもしれないが、残念ながら僕にはそういう部分がない。少なくとも、ここまでのものはない。だから、共感が湧かない。いや、それどころか、こういう女性とは関わりを持ちたくないとさえ思ってしまう。
書いた文章でそこまで思わせるということは、間違いなく文章が巧いということである。ある種、恋愛の本質を突いているのかもしれない。しかし、僕にはこういうのを潔しとしないところがどうしてもある。
主人公は書きながら、自分の悪いところ、至らないところもよく解っている。いや、常に解っているわけではないが、自分を棄てた彼に対する怨みを述べていたかと思うと、思い出したように自分のひどさについても触れてくる。しかし、僕からすると、正直にそういうことを書くことが何らかの免罪符になるとでも思っているようにしか見えないのである。
訳者あとがきにはこんなことが書いてある:
冷静な語りと、語られている内容の痛々しさとのギャップに、いっそ突き抜けたユーモアさえ生じている。じっさいこの本を読んでいると、思わず吹き出したり、口の端でにやりと笑ったりすることが幾度となくある。
これを読んで心の底から「ふーん」と思った。なるほどそういう風に読む本なのか! そういう風に読める(かもしれない)本なのか! 残念ながら僕にはそういう体験が全くできなかった。全く楽しめなかった。
うーん、僕には笑えなかったし、どう考えてもこれを笑う気にはなれなかった。
この物語はタイトルにあるように、順序を逆にして恋の終わりのシーンから書き起こされている。しかし、この小説のユニークなのはそこではなく、女性作家が彼のことを小説に書こうとして悩んでいる日記風に書かれているところである。
私はこんな風に記憶しているけれど、自分で記憶を作り替えているかもしれない、とか、そんなことがそこら中に書かれている。その辺りの構造と技巧があまりに見事で、これは小説ではなくドキュメンタリなのではないかと勘違いしてしまうほどである。
そういう説明に興味を覚えた人は読んでみれば良いと思う。ただし、僕と同じうように全く楽しめない人もいるだろうとは思う。
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