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Sunday, February 03, 2013

映画『つやのよる』

【2月3日特記】 映画『つやのよる』を観てきた。行定勲監督。原作は井上荒野。

行定監督の映画を観ていて時々思うのは、途中で飽きてくることがあるということだ。あまりダイナミックなことが起きないままシーンが流れて行くからである。でも、これが行定監督の味かなあと思う。

ある種「えっ、これで終わり?」という、訳の分からない映画であるとも言える。もしも僕が今の半分の年齢だったなら、この映画を失敗作と断じていたのではないかと思う。僕も歳を重ねて漸くこういう味が解ってきた。

観ていて『きょうのできごと a day on the planet』を思い出した。群像劇である。一見バラバラのオムニバス風ではあるが、僕はやっぱり群像劇と呼びたい。そして、そう、今回もあまり華々しい出来事は起きない。だが、設定はかなり凝っている。

タイトルになっている「つや」は女性の名前である(漢字では「艶」と書く)。だが、物語の主人公ではない。それどころか顔もまともに映らない。彼女は40代の半ばで、病院で死にかけている。何の病気なのかも語られない。

艶の夫が松生春二(阿部寛)である。彼は病院につきっきりである。いや、艶が元気だった頃からずっと艶の後を追いかけ回して、艶の面倒を引き受けてきた。自分と婚姻関係にありながら奔放な男関係を続ける艶に、嫉妬しながら、しかし、ひたすらに愛し、彼女の引き起こすトラブルさえ片付けてきた。

その松生が、艶の死に瀕して、艶の昔の男たちに連絡を取り始める。

映画はオムニバス風に展開する。各章には「艶の従兄の妻 石田環希」「艶の最初の夫の愛人 橋本湊」「艶の愛人だったかもしれない男の妻 橋川サキ子」「艶がストーカーしていた男の恋人 池田百々子」「艶のために父親から捨てられた娘 山田麻千子」というサブタイトルがついている。

上記の女性たちを小泉今日子、野波麻帆、風吹ジュン、真木よう子、忽那汐里がそれぞれ演じている。山田麻千子の母を演じた大竹しのぶを含めて、僕の好きな女優ばかりである。

それだけではなく、石田環希の夫を羽場裕一、その愛人を荻野目慶子、艶の最初の夫を岸谷五朗、橋本湊の勤務先の社長を渡辺いっけい、彼女の同僚を渋川清彦、橋川サキ子の息子を水橋研二、池田百々子の恋人を永山絢斗、山田麻千子の大学の教授を奥田瑛二、そして、艶の病院の看護師を田畑智子が演じており、ほかにもほんのちょい役で柏原収史など、一体これだけで映画が何本撮れるか!というくらいの豪華キャストである。

そして、この章名を見るだけで、艶がどんな女だったか想像がつく。だが、この構成が面白いのは、艶が翻弄した男たちを直接描くのではなく、その男たちの妻や愛人や家族という、ひとつ隔たった人たちを描いているところである。

この不思議な構成に加えて、艶自身がほとんどまともに画面に姿を表さないことによって、映画はとてもミステリアスな雰囲気を醸し出している。そして、手の内を最後まで明かさないような感じの中で、観客はさまざまな男たち女たちの愛の形を見せられる。

人はこれを、恋愛の機微とか多様性とか面白さなどと言うのかもしれないが、僕はこれを「男と女の難しい部分」と呼びたい。そう、これは、男と女の関係の、とても難しいところを描いた映画なのである。

だから、映画は難しいまま終わる。5つの章が最後にきれいに繋がって、ずっと解けなかった謎が解けてすっきりして、というような映画ではない。さらっと描いているように見えて実は非常に深く、しかしそんなに陰惨な感じはなく、けれど非常に難しいものを描いた映画なのである。

映画そのものを難しいと感じるかどうかは人によるだろう。僕の胸にはスーッと溶けこむように入ってきた。そう、難しさがすんなりと伝わってきた。それは痛々しくもあり清々しくもある。

パンフレットに岩井俊二が書いていたことが見事に正鵠を射て印象深かったのでここに引いておきたい。知っている人も多いと思うが、行定勲はずっと岩井俊二監督の下で助監督を務めていた。岩井は自らの弟子筋に当たる行定の本質を「縁」と見極めて、こんなことを書いている:

行定は絆を信じていない。少なくとも無垢に信じたりはしない。絆らしきものがあると、そこを虫眼鏡で丹念に観察する。

そうやって彼が見つけ出してくるのが「絆」ではなく「縁」なのだと言う。これはさすがに師匠らしい慧眼であると思う。この『つやのよる』がまさにそういう映画だと思う。

登場人物は皆一様に辛い目に遭っている。辛い恋をしている。男と女の難しい関係に踏み込んでしまっている。だがそこには生きる活力になる何かもある。それぞれの個性に応じて折り合いのつけ方も異なる。

最後に棺桶の中の艶に向かって松生が言う「ざまあみろ」という台詞は、きっと彼なりの折り合いのつけ方だったのだと思う。

カメラがものすごく良い。カメラを動かさずに奥の人間から手前の人間に焦点を変えたり、逆にゆっくりと大きく動いてみたり。長回しもある。

病院のシーンでのガラス越しに中と外で展開する松生と麻千子のシーンの素晴らしさ。木製のベンチにぽつんと忘れられた煙草とライター。松生がママチャリで山の中のハイウェイを登ってくる画。麻千子が母の方にあごを乗っける2つのシーン。

良いシーンが多いと映画は印象強く心に残る。そう、とても印象に残る映画だった。

ところで最初のシーンは松生が包丁を研いでいるシーンである。ただし、最初は松生の顔のアップで手許は映らない。が、僕らはその音を聞いただけで包丁を研いでいると解る。

しかし、若い人はどうなんだろう? 包丁を研いだことも研ぐのを見たり聞いたりしたこともないのかもしれない。音だけでは包丁を研いでいると解らないのではないだろうか?

もちろん、その後すぐにカメラは手許を捉えるので、別に支障はない。ただ、監督は最初は音だけで伝えようとしたのではないか?

時代や環境が変わってくると、こういう描き方も変わって来ざるを得ないのだろうな、などと変なことを考えてしまった。

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