『呪いの時代』内田樹(書評)
【2月19日特記】 最初に、本を読んだ後の感想としてはあまりに次元の低いことを書くが、いやあ、内田樹は面白い(笑)
何が面白いって、僕が考えていることに直接働きかけてくれるからである。他の本が飲み薬だとしたら、内田樹は塗り薬である。患部に直接作用してくる。
どう作用してくるかというと、僕が考えていたことと同じことを言って僕を喜ばせてくれる。僕が途中まで考えていたことを補強し、敷衍し、傍証を与えてくれる。何となくそうなのかなと感じていたことに、明快な論拠を示してくれる。考えあぐねて放り出していたことに、いくつかのヒントをチラつかせて、そこから先の道をぼんやりと照らしてくれる。
彼の面白さは新奇さではない。彼の書くことは僕の知らなかったことばかりではない。僕が知っていたことを、まるで土の中から掘り出したばかりのものにシャワーを当てて洗い流すように明快にしてくれる。
いや、まあ、それはあくまで僕の場合であって、「俺は内田が書いているこんなことは全く知らなかったし考えたこともなかった」と言う人もいるだろう。もちろん、僕だって内田樹の書く全てを事前に熟知しているわけではない。内田樹は学者として長いこと飯を食ってきた人なので、僕よりもはるかに読書量が多いし、当然彼の専門の分野については僕はほとんど何も知らない。
でも、僕が知らないと言っても内田樹は決して「どうだ、偉いだろう」とか「そんなことも知らんのか」とは言わないのである。
そう、内田樹は親切なのである。知らない人間に「参ったか」とマウンティングしてくるのではなく、彼がよく使う表現を借りると、「情理を尽くして」説明し、解ってもらおうとするのである。お陰で分からなかったことも少しずつ分かるようになる。知らなかったことも徐々に知ることになる。彼のロジックが愉しいので、ますます先を知ろうとするのである。
内田樹がこの本で「呪い」と書いているのは、上述の内田樹の態度と対局をなすような対応のことである。で、内田樹はそういうのをやめようよと書いている。そのほうが人類の未来のためになるのだから。
内田樹の根底にあるのは、そういう朗らかさと楽観性である。もちろん、その裏にあるのは的確な観察と、固定観念に囚われない柔軟な発想である。それはあまりに抜きん出ていて、時には他人に理解されず反感を買うだけのこともあるはずだ。
しかし、内田樹を猛烈に排撃してくる人間に対しては、彼は向きになって正面から反撃するのではなく、なんだかするりとやりこめるのである。そこにあるのは敵が突き出した力を脇へと逃がしてしまう武道の技のような熟練であり、そういうことを面白がるユーモアのセンスである。
「私だけが正しい」と声高に唱える人間に対して、「私の言うことは間違っているかもしれないけど、ま、とりあえずみんなに聞いてもらいましょうよ」と反論するのが内田樹である。それは一見噛み合っていないように見えるかもしれない。しかし、そのことによって「呪い」は消滅するのである。
そう、この本の読後感が良いのは呪いが消滅するからなのである。
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