車中にて
【1月5日特記】 昨夜、梅田で妻と待ち合わせて夕食してから一緒に帰った電車の中で、向かいの席に小学校高学年くらいの女の子が2人座っていた。
そして、彼女たちの座っているすぐ左側がドアで、そしてそのドアを挟んで向こう側(左のほう)にもまた別の女の子2人が座っていた。どうやら4人とも同じ塾からの帰りのようだ。
僕らの向かいの2人はノートを広げて何やら一生懸命書いている。それを見て左側の2人のうちのひとりが、軽蔑しきった口調で言った。
「なんで電車の中で宿題やってんの?」
言われたほうのうちのひとりは一瞬だけ顔を上げて彼女たちのほうを窺ったが、すぐに顔を伏せてノートを見ながら、今度は彼女たちのほうを全く見ずにこう言った。
「だって、おうちに帰ってからやりたくないんだもん」
その子の隣に座っているもうひとりも全く同じ考えであるらしく、彼女のほうは全く顔を動かすことなく一心不乱にノートに向かっている。
非難したほうの少女は、しかし、なおさら非難がましくこう言った。
「家でやればいいのに」
そして、左側の2人はさらにヒソヒソ、コソコソと何やら小さな声で語り合って、突然大きな笑い声を上げたりしていた。でも、僕らの向かいの少女たちは、まるで何も聞こえなかったかのようにノートに向かっている。
ところが、発車時間が迫って乗客が増えてきたところで、先ほど非難された少女がやおら顔を上げて、左側の2人に向かって口を開いた。
「マユ、ユミ、お客さん増えてきたから、話し声落としなさい」
いや、左側の女の子たちの名前まで憶えていないので、「マユ、ユミ」というのは僕が適当に再現したのだが、要するに下の名前で、と言っても親しみを込めてファースト・ネームで呼んだという感じではなく、呼び捨てて説教した感じだった。
左側の2人は明らかに不服そうで、かつ、つまらない因縁をつける右側の2人を馬鹿にした感じで、
「私たち、そんな大きな声で話してないよ」
と反論したが、僕らの向かいの彼女は容赦なく、
「大きいわよ。ここまで聞えるもん」
と突き放した。
駅からの帰り道を歩きながら、僕は妻に言った。
「女の子は大変だね。すぐにああいう敵対関係を作ってしまう。宿題なんか家でやろうが電車でやろうが、どっちでもいいのにねw」
僕は封建的、家父長制度的な旧い価値観に基づく男女観には断乎として与しない。だから、普段はできるだけ「男なら」とか「女のくせに」というような言説は採らないようにしている。しかし、女の人を見ていると、時々どうしようもなく「こういうのって女性特有だよなあ」と思ってしまうことがある。
この日の場合は小学生だったが、ある種大人の女性に対しても敷衍可能性を感じてしまったのである。
しかし、妻はそういうありがちな女性とは最も遠いところにいる存在であると言っても良い。また、妻も僕も2人とも、最大の関心事は自分の好きなようにやれるかどうかであって、他人が何をどうしようと知ったことではないし別段気にもならない。
だから、僕はそんな風に言いながら、妻がどう返してくるのかな、と少し楽しみにしながら彼女の言葉を待った。ひょっとしたら、
「女とか男とか、全く関係ないわよ。私は小学生の頃あんなことなかったもん」
などと反論されるかもしれないと思った。しかし、待っても反応がなかったので、僕はまた少し言い足した。
「多分、左の2人は右の2人の、如何にも良い子ぶった、賢そうな態度が許せないんだろうね」
妻は言った。
「そうね、でも、小学校ぐらいの頃は『許せない』って感覚、確かにあったよなあ」
うーん、なるほど。そう言われたら、小学校の頃には確かに僕も心の中で「許せない!」と憤ることがあったかもしれない。ただ、それは主に大人たちに対する憤りであって、クラスメートに対してはあまりなかったように思う。
生きて行くのはなかなか大変なことである。
時として、自分の中の見知らぬ自分をどう手なずけて行くか、というテーマにぶつかる。しかし、それは万能の処方ではない。一方で自分の中の見知らぬ自分を一気に解き放つことも必要なのだ。
彼女たち小学生には、まだ僕らよりも何十年も残された時間がある。彼女たちが僕らの年齢になったときに、彼女たちなりの、彼女たちらしい、何等かの“境地”に達していればいいなあと思う。
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