映画『希望の国』
【10月27日特記】 映画『希望の国』を観てきた。
園子温は長年僕の趣味からは少し外れた監督であった。それが『愛のむきだし』から急に目が離せなくなってしまったのである。
今回は原発事故を扱っている。時代は福島の事故より後。場所は「長島県」である。──そこまで架空にしなければならないのか!と、いろんな意味でドキッとした。
で、地震があって、映画の中では意図的にほとんど描かれない原発事故があって、退避命令が出る。人々は一体自分がどこまで正しい情報を与えられているのか分からないまま翻弄される。
気をつけなければならないのは、こういうテーマの作品はとにかく貶しにくいということだ。下手に貶すと原発推進派のレッテルを貼られてしまうからである。
しかし、これはドキュメンタリではなくフィクションであるだけに少したちが悪い。下手すると、自分勝手に極端に酷い架空の状況を設定しておいて、それを自分で糾弾するようなことになってしまう。
そういう落とし穴は現にこの映画にもたくさんある。
例えば退避勧告区域を厳格に半径何キロと区切って、人の家の庭を横切る形の立ち入り禁止のラインを引き、いきなり防護服の係員がやって来て、そこに杭を打ってロープを張って、「ここからこっちは直ちに出て行け」などというようなことは、さすがに現実にはありえないだろう。
僕は映画を見始めてすぐに、「そういう陥穽に落ちてはならない」と身を強張らせてしまった。
しかも、冒頭からやや力が入りすぎの感があり、がなり立てる感じの台詞も多い。観ていてしんどく、ますます「騙されてはいけない」と身構えてしまう。
しかし、映画を観ているうちに、その警戒心は徐々に緊張を解かれることになる。それはひとえにそこに映画的な表現が重ねられるからである。
監督がもしも演説をしたいのであれば、それは映画になどせず、演説をすべきである。具体的な何かを訴えたいのであれば、具体的で誰もが同じ意味に受け取れる檄文にしてそれを撒くべきなのである。
これは映画である。だから、そこに映画的な表現がある。みんなが少しずつ違った受け取り方をするのだろう。それで良いのである。みんなにいろいろな何かが沁みて行くのである。
そういう意味で、これは映画的に非常にうまくまとめられた作品であった。
残る側になった老夫婦と、避難する側になった息子夫婦の物語なのだか、この中で認知症の老妻を演じた大谷直子の演技が群を抜いて光っている。
息子の嫁を演じた神楽坂恵は、僕はあまり良いと思ったことはないのだか、昔からの園子温のお気に入りだし、今では園監督夫人なのだから仕方がない。
しかし、(僕が思うに)本来的にあまり巧くない役者ではあるのだが、妊娠してから急に壊れてこの行く感じは、ひょっとしたら彼女にしか出せなかったかもしれない。
見始めてすぐに、ここで描かれているのは「悪意」ばかりであると思った。よしんばそれが「正義」であったとしても、それは悪意という形を取った正義なのである。
そう、思い起こせばこの監督は、ある意味ずっと「悪意」を描き続けてきた監督なのかもしれない。
そういう重いムードで始まった映画が、後半は行方不明の両親を捜す若いカップルも含めた、3組の男女の話に収斂してくる。
途中の、廃墟に現れた子供たちの話や、退避の説得にきた役人を交えて5人で話すシーン、雪の中での盆踊りのシーンなど、エピソードの入れ込み方が絶妙である。
認知症の大谷がしきりに言う「帰ろうよ」の台詞も効いている。神楽坂がお腹の子供に歌って聴かせる変な歌も効いている。カメラが時々捉える人のいない風景も、言葉少なく何かを語っている。
そして、ラスト何分かの老夫婦のシーンの、なんと美しいことか。上からのカメラが木の枝の間から捉えた老夫婦の画の、なんと美しいことか。
僕はこの映画をあまり政治的に語りたくない。この文章で伝えたいのは、ここにある研ぎ澄まされた映画的技法についてである。
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