毒を吐かないで
【9月12日特記】 最近 twitter の profile 欄などに「時々毒を吐きます」などと書いている人がいるが、これは何なのだろう。僕なんぞは端的に「吐かないでよ」と返したくなる。
思うに「毒舌」というのは相当に特殊な才能なのであって、誰にでも真似できる芸当ではない。
毒を吐くものは基本的に嫌われてしかるべきである。毒舌を愛されている人なんて世界中でほんのひと握りしかいないのではないかと思う。
そして、愛される毒舌者は別段自分では毒舌だなんて思っていない人たちなのであって、「よし、毒を吐いてやるぞ」などと意識していると、結局のところ周りの人間に不快感を味わわせているだけなのではないか、というのが僕の感じ方である。
単にボロカスに貶すことは毒舌でも痛快でもなんでもないのである。あるいは、「なんでもない」が言い過ぎだとしたら、それは「不完全な痛快」に終わっているのではないだろうか?
つまり、たとえば、ある政治問題があって、それに反対する人間が、それを推進しようとしている人間を嗤ってメッタ斬りにするとする。──それは、同じようにその政治問題に反対する人たちには痛快に映るかもしれない。しかし、その政治問題に賛成の人たちについては、その全員を敵に回しているのではないか?
そして、下手をすると、その政治問題に反対する人間の中にも、「いくらなんでもその言い方はないだろう」と反感を覚える人が出てきているかもしれない。
不完全な痛快は、言うまでもないが、痛快ではない。
本当の毒舌というものは、そして、その毒舌によって達成される痛快感というものは、敵の陣営の人々の頬をさえ緩ませるものなのではないかと僕は思う。
さすがに攻撃した相手本人を笑わせるのは無理であったとしても、その取り巻きや支持者やシンパの人たちの中に、「くそっ、上手いなあ」「こりゃ一本取られたかも」と思う人が出てくるほどのものでなければならないように思う。
そして、当然のことながら、それは誰にでもできる芸当ではない。
あまりに例が古くて若い人には何のことだか分からないかもしれないが、アントニオ猪木が異種格闘技戦でモハメド・アリと対戦した際に、アリから「このペリカン野郎」と言われたようなのが毒舌の好例なのではないだろうか?
僕らはアリに対する尊敬の念は持っていたけど、やはり同じ日本人である猪木を応援していた。しかし、それを聞いて、「くそっ、巧いこと言いよるなあ。さすがに『蝶のように舞い、蜂のように刺す』のフレーズを紡ぎだした詩人や」と感心しながら、笑ってしまった。
今の日本でなら、さしずめビートたけしだろう。時にはひどいことを言われた本人がぷっと吹き出してしまう。だけど、たけしは「俺は毒を吐く」なんて宣言せずに、泰然と笑っている。
そもそも、「僕は毒を吐く」というフレーズがどうして profile 欄に収まるのだろう? どうして売りの文句になるのだろう? それはそもそも「俺はお前に悪意を持っている」というのと同質のメッセージなのではないか?
かつては「癒し」という語がのべつまくなしに使われるようになって非常に気持ち悪いなあと思った。すると最近になって逆に「毒を吐く」なんてのが褒め言葉風に使われるようにもなってきた。なんだかおかしい。
いや、もちろん、それを芸の域にまで高めることができる人には、どんどん毒を吐いて、そして結果として笑いを振りまいてほしいとは思うのだが。
僕も若い頃は毒舌に憧れ毒舌を意識していた時期があった。しかし、ある時、これはかなり難しいぞ、と気づいたのである。特にネット上では至難の技なのではないだろうか?
今では僕は、毒にも薬にもならない人間でいたいなあ、と基本的には思っている。
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