『東京プリズン』赤坂真理(書評)
【9月14日特記】 かなり話題になっている小説だ。そして、僕にとっては初めて読む赤坂真理。しばらく読み進むうちにスティーヴ・エリクソンを思い出した。あの、現実と幻想が混濁する感じ。騒然とした感じ。あるいは、(そこまで圧巻かつ猥雑ではないにしても)ドン・デリーロの『アンダーワールド』。すべてが繋がっているのだという感覚! ああ、日本にもこんな小説を書いている作家がいたのか!と驚いた。
16歳のマリはアメリカに留学している。そして、国際電話を通じて30年後の自分と会話をする。物語の語り手は16歳のマリであったり、30年後のマリであったりする。そして、読んでいると時々どちらが語っているのかさえ分からなくなる。
そのマリが学校の課題で、天皇の戦争責任というテーマで研究発表をさせられる。スペンサー先生によって研究発表の予定がいつのまにかディベートにすり替えられ、肯定側、つまり、日本の天皇には戦争責任があるのだという見解に立って弁舌させられる。
しかし、これは例えば東京裁判という歴史的事実に新解釈を施したというような小説ではない。そういうことを期待して読むと期待外れに終わるだろう。
では何を描いているのか?
本人が書いているように、初めにそこにあったのは「《戦争と戦後》について書きたい」という強い衝動であっただろう。だが、読者がそこから得られるのは、「なるほど戦争って、そういうことだったのか」「戦後はそんな風に推移したんだ」「天皇ってそういう存在だったのか」というような、目から鱗が落ちるような体験ではない。
むしろ読めば読むほど我々は、日本人のことが分からなくなる。そして、その分からない日本人という分類に自分も含まれているのかいないのか、それさえ自信がなくなってくる。そして、分からないということを通じて、初めて我々は何かを分かるのである。
それは理性的な合意でも、感性的な受容でもなく、言わば悟性的認識である。だから、この小説にはヘラジカが出てくる。ベトナムのシャム双生児が現れる。大君も出てくる。ナンダカワカラナイ。でも、突然光の塊に囲まれている。
ディズニーランドが建つ埋立地とか、ヘラジカの耳とか、そういう如何にも小説的な場面や小道具のあしらい方がとても巧い。
これは歴史書でも論文でもない。正しい意味での、非常に小説的な小説である。
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