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Sunday, August 12, 2012

読解力、文意

【8月12日特記】 例えばこのブログでも良いし、ホームページでも良いし、twitter なんかでも良い。ともかく不特定多数の読者を想定したネット上のどこかに、僕が何かを書いたとする。そうすると、結構頻繁に、誰かから何らかの反応がある。

その中には僕に好意的な反応もあれば、批判的な反応もある。それは仕方のないことである。批判や異論は謙虚に冷静に受け止めるしかない。しかし、中にはそういう次元ではなく、まさに曰く言い難い、うーん困ったという類の反応がある。

それは読解力の問題である。この人たちは一体どんな読解力をしているのだろう、と首を傾げたくなるリアクションがあるのである。これからの日本は一体どうなって行くのだろう、と不安になって仕方がない。

例を挙げよう。しかし、ここで実例を挙げてしまうと、万に1つ、書いた本人が見て激昂する恐れがあるので、本質を曲げないようにしながら全く別の例を作って書いてみる。

例えば僕が直接の知人について書くとする。彼はちょっとした有名人である。その彼を捕まえて僕が「彼はちょっと馬鹿だけど、とてもいい奴です(笑)」と書いたとする。すると、こんなメールが飛んでくる:

どうしてあなたは学歴だけで人間の値打ちを測ろうとするんですか! 許せません。

困るのである。僕は馬鹿とは書いたが、学歴云々とは書いていない。馬鹿にもいろんな意味があるが、ここでは学歴のことを言ったつもりはない(第一僕は低学歴の意味で馬鹿という言葉を使うことはない)。

にも拘わらず、この人は「馬鹿=学歴が低い」と勝手に読み替えている。そこまでならまだ良い。それは読み違えである。あるいは、読み違えられるのは書き手が下手だからだと言われるのであれば、甘んじてその批判は受けよう。

しかし、僕が書いたのは逆接の接続詞で繋がった文である。「馬鹿だけどいい奴だ」と、人間の値打ちを認めている。決して馬鹿だからと断罪していない。

ところが、この人は僕が「学歴だけで人間の値打ちを測ろうとする」と書いている。なんだろう、これは? 多分、他人の書いた文章の一部分しか読まない人なのだ。僕の書いた「馬鹿」という言葉に反応して、この人の頭の中で、僕の文章は勝手に句点を打たれてしまったのである。

そして、多分、この人は僕が取り上げた人物のファンか何かで、彼がほんの少しでも貶されることを断じて許さないのであろう。

次の例。例えば僕が「放送局の中ではいまだにネットは敵だという考えが支配的で、いくらユーザ側の要望があっても、ネット上に番組を出す振りをしながらできるだけ放っておくべきだ、というような考えの人もいる。こういう人を相手にしているとやりきれない気分になる」と書いたとする。そうすると、こんな風にRTされてしまう:

見ろ、テレビ局ではネットに対してこんなふざけた考え方をしてるぞ!

分からないのである。僕はもっと番組をネットに出すべきであるという考えに基づいて書いている。だからこそ、とんでもなく古い考え方の人間を説得するのにうんざりしているということを書いた。そして、これをRTしたこの人もまた、多分番組をネット上に出すべきだと考えている人であろう。

言わば僕にとっては同志なのである。その同志が「見ろ、こんなひどいことを言っている奴がいるぞ」と言わんばかりに、晒し者にするみたいにRTしている。

意味が解らないので、「どういう意味ですか?」とリプしてみると、「お前がマスゴミのクズ野郎だってことだよ」なんて返事が来る。

うーん、なんだろうこれは? この人も僕の書いた文章の一部分にだけ反応している。文章全体を読み通して文意を掴もうという意識は全くないようだ。いや、多分この人にとっては、文章全体の中の一番目についた部分が文章全体の文意になるのだろう。

また別の例。例えば僕が「インターネットを劇的に変えたのは表現技術の発達ではなく、検索エンジンの飛躍的な進化である」と書いたとする。そうするとこんな一文で始まるコメントが付く:

インターネットを劇的に変えたのは表現技術の発達ではありません。

この文章だけを見るとどこもおかしくない。ただ、僕の記事に対するコメント欄に書くのであれば、この書き出しは断じておかしい。

この書き出しだと、まるで僕が「インターネットを劇的に変えたのは表現技術の発達である」と書いたかのように読めてしまう。僕も同じことを書いているのである。いや、僕のほうが先に書いていて、それを受けてこの人が後から書いているのである。

ならば、こういうふうに書き始めるべきであろう:

お書きになっているように、インターネットを劇的に変えたのは表現技術の発達ではありません。

これでこそコミュニケーションである。この人の書いていることは、単独で読むとちっともおかしくないのだが、僕の記事を受けて書くとしたら「お書きになっているように」とか「そう」とか「確かに」とか、ともかく頭に何かを添えなければおかしいのである。

多分この人は、自分の思ったことを、何も考えずにただ書いただけなのだろう。だから悪意はないのかもしれない。しかし、他人の書いた文章に反応して書く限り、まず相手の文意をしっかり消化してから、接続詞を選んで書き始めるべきなのである。それでこそ人と人とのコミュニケーションなのである。

ま、他にもいろんなタイプの例があるのだが、挙げ始めたらキリがない。ともかく一事が万事こんな感じのリアクションが、昨今とても多いのである。一体どうしたものだろうか?

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