『曲り角の日本語』水谷静夫(書評)
【7月14日特記】 僕は「言葉好き」なのでこういう本をたくさん読んでいると思われているかもしれないが、好きなだけにありきたりなもの、底の浅いものを排除しようとして吟味してしまう。もちろん読んでみなければその辺のところは判らないのであるが、でも、この勘は昔からあまり外れることはなかったように思う。
それで、この本だが、さすがに辞書の編纂者が書いた本である。1926年生まれというのを知って、少し古臭いのではないかと心配したのだが、なんのなんのこんなに先進的でスリリングな日本語論を、僕は未だかつて読んだことがない。世の中に数学と言語学を関連付けて研究している学者がいるとは思いもよらなかった。
取り上げられている事例も「よろしかったでしょうか」やラ抜き言葉など、非常にポピュラーな話題から、司馬遼太郎の不注意さや日本語と英語の違いなど、非常に深いところまで入って行く。
さらに敬語は実は既に敬語ではないという分析を皮切りに、国語教育や学校文法が日本語をダメにしたのだという、目から鱗の論述へと移る。言葉というものは自然に変わり行くもので、それをある意味「正しく」押し留めようとするのが教育である、と僕は思っていただけに、教育が言葉を歪めたのだという指摘はとても新鮮だった。
そして一番スリリングなパートが、第3章の「文法論を作り直せ」であろう。これはまさに科学である。そして、言葉というものが科学で分析できるのであるということを、これほど明瞭に示した本はなかったと思う。
最後に著者は、自ら例文を書いて、未来の日本語を軽やかに予想してみせる。この日本語の気持ち悪さが、逆に如何にもありそうな印象を与える。
結びの一文を読んでも、この著者が如何に柔軟な頭の持ち主であるかということがよく分かる。僕の「言葉好き」なんて底が知れているということを改めて認識した。
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