『ブルックリン・フォリーズ』ポール・オースター(書評)
【7月3日特記】 ポール・オースターはどうもナショナル・ストーリー・プロジェクトに絡み自らも『トゥルー・ストーリーズ』を執筆して以来、“名もなき人たちの数奇な人生”というコンセプトの虜になってしまったようだ──というのが、僕がこの本を読んでいる最中に最初に感じたことだ。
そして、例によって読み終わってから柴田元幸による訳者あとがきを読むと、これは『幻影の書』から5作連続でオースターが書いた、「自分の人生が何らかの意味で終わってしまったと感じている男の物語」の3作目であり、3作連続で書いた「中高年の物語」の最初の作であると言う。なるほど、そういう整理の仕方があるのかと思った。
いつものオースターと少し異なるのは、柴田も指摘しているように、登場人物への焦点の当て方からするとやや「群像ドラマ」風であるということと、僕が思うに、先の読めないストーリーであると思った。展開がこれほど予想を裏切る、と言うよりも、先を予想することさえ許さない小説を、今までオースターは書いていただろうか?
いや、他の作家が書いた小説にも、これほど読めないタイプのものがあっただろうか?
大抵の小説では、ものすごい美人が登場すると、主要な人物のうちの誰かと恋愛に陥る。あるいは事件を起こす。あるいは、何だろう、ともかく何か大きな意味のあること、記憶に残ること、ストーリーを動かすことをやるのである。あるいは少なくとも印象に残るエピソードを刻むものである。
それが投げやりにしか描写されない登場人物ならいざしらず、「完璧に美しい」などと形容された女性が、あまり活躍の場もないまま、展開のメインストリートから消えて行ったりはしないのである。この話はそういう裏切り方をする。それは焦点が人から人へと移って行くからである。
物語は、語り手である60歳近い肺癌の男、元保険の販売員、離婚して一人暮らしのネイサンのことを中心に始まる。そこから、ネイサンの甥で、学者になると思われていたのに大学院をドロップアウトしてタクシー運転手から本屋の店員になっているトムに焦点が移り、そこからトムの務める本屋のオーナーのハリーの数奇な人生が語られ、トムの妹で行方不明の未婚の母ローリーが出てきて、話が一体どこに行くのかと思った中盤になって、今度は突然ローリーの娘ルーシーがトムを訪ねてくる。
そんな風にして、話はどんどん道を逸れるように展開しながら、ひとりひとりの愚行を語る。いや、ジメジメと重々しく語るのではなく、少し脳天気に泣き笑い風に語る。まさに folly ではなく follies なのであって、そのどうしようもない愚行のバリエーションの中で、何ものにも代えがたい個性のきらめきを語っている。やっぱりオースターにしかできない仕事だという気がする。
で、少しほんわかとしたハッピーな雰囲気の中で話を閉じるのかと思ったら、この暗示に満ちた終わり方は一体何なんだろう。
これこそ愚行の中の愚行ということなのだろうか? いや、どれも同じような愚行のバリエーションでしかないと言うのか? その辺の答えは、それぞれが、それぞれの愚行に満ちた人生の中で見つけていくしかないのである。なんともいやはや深い。そして、この深みに達するために、ひたすら無駄に蛇行したみたいなストーリーを編んだオースターを、やっぱりすごいと思うのであった。
読み終わってから時間が経てば経つほど、いろいろと思い返すことが増えてくるような小説である。
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