記憶と記録
【4月16日特記】 僕は記録マニア、データ・マニアに分類される人間だと思う。何度か書いたことだが、人生最初のPCを買ったのも住所録と映画鑑賞のデータベースを作りたかったからだ。
僕らの時代の少年たちはほとんどみんながプロ野球に夢中になった。僕とてその例外ではなかったのだが、でも、どちらかと言えば、僕は野球を見ること、野球をすることよりも、野球の記録やデータに魅入られていたのかもしれない、と今になって思ったりもする。
で、「野球」「記録」という2つの単語が並ぶと必ず思い出すのが、「記録に残るよりも記憶に残る選手になりたい」という言い方である。プロ野球選手が結構口にするフレーズである。今日もスポーツニュースを観ていたら、あるプロ野球選手が言っていた。
僕の記憶では、「記録に残るよりも記憶に残る選手」と言われたのは長嶋茂雄選手だったと思う。
これは確かに彼に相応しい表現であると思うし、それはそれで素晴らしいことだと思うのだが、その一方で、結果としてそう言われるのではなく、最初から「記録に残るよりも記憶に残る選手」になりたいと言う選手の気が知れないのである。
何故って、自分を直接知っている人が全員死んだら、記憶は完全に消えてしまうわけだから。
その点記録は残る。直接知っている人がひとりもいなくなった100年後でもちゃんと残っている。そして、近年では映像の形で記録し、保存し、再現する技術が進んだために、全く彼を知らない人たちが彼の勇姿を見ることさえ可能になってきた。
そんなものよりも記憶に残るほうが良い──と言うのは一体どういう思考なのだろう? 一瞬のものであっても派手なイメージを飾りたいということか?
でも、記憶といってもいろいろある。ものすごく鮮明に覚えているつもりでも記憶違いだったということもある。「地味だったけど、良い選手だったよなあ」みたいな記憶もある。完全に忘れていたのに、何かの拍子にふと甦る記憶もある。そして、いずれの記憶もどこかあやふやなものである。
そんなとき僕は記録を当たる。スコアに刻まれた数字から選手の活躍を辿る。データを眺めることで引退した選手を脳裏に復活させるのである。
「ああ、あんまり長打力のある打者ではないと思っていたけど、この年にはホームラン21本も打ってたのか」などという発見もある。逆に、「あれ? もっと活躍した選手だったと思ったけど、結局実質的にレギュラーだったのはたったの2シーズンか」などということもある。
記録よりも記憶に残りたい選手というのは、後者のような印象を持ってほしいということなのだろうか?
いや、別に記憶に残りたいと思う選手が悪いなどと言うつもりはない。ただ、記録も捨てたもんじゃないよと言いたいだけのことである。
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