観るという行為、テーマ、世界観
【3月1日特記】 twitter を見てたら、ある高校生が鴻上尚史さんに対して、
高校生の男子です。デジャブュ86を見させて頂きました。とってもおもしろかったのですが、結局のテーマ(?)的なものがわかりませんでした。もしよければ教えていただけませんか?
とメンション(@で始まる、特定のアカウントに向けた公開メッセージ)してます。
これに対する鴻上さんのリプライ(形としては非公式RT)は、
テーマを直接、作者に聞くのは野暮というものです(^^)
非常によくコントロールされた、適切なリターン・ショットだと思いました。
もっと穏当な答え方をするとすれば、「テーマを直接、作者が語るのは野暮というものです」という表現でしょうが、ここは訊いてきた相手を主語にして「聞くのは野暮」ぐらいの、少し強めの言い方をしてやったほうが良いでしょう。
しかし、それにしても、この世代に多く見られるこういう感覚って何なのでしょう? 僕らにはどうしても解せないものです。
まるで演劇の中には解りやすいテーマがマーク付きで配置されていて、観劇というのはスタンプラリーみたいにそれにハンコをついて行くゲームだと思っているのではないでしょうか。
単純な世界観、と言うよりも、「世界は単純なものである」という世界観。そして、ものごとをともかく単純化して行くことが人生の解法であるかのような思い込み。
前にもどこかに書いた記憶があるのですが、世界を単純化して行くと、世界は瞬時に判断のつくものになり、生きることは楽になるでしょう。でも、それは間違いだらけの人生になるはずです。
何故なら、世界は本来複雑なものだからです。その複雑なものを複雑なまま全体像として捉えるやり方を、僕らは生涯かけて学んで行くものなのではないでしょうか。
全体を捉えると言っても個々の要素を見ないということではありません。
個々の要素は見る。でも、むやみに切り捨てて、特徴的なものを安易に抽出したりしない。分解してひとつひとつを分析する。もちろんそれぞれの要素には軽重があり、確かにその軽重も見るのですが、大事なことはそれぞれの要素の関係性を見抜くこと。そして、最後には必ずそれを再構成・再構築して、あくまで全体像に戻してからそれを見極めること。
──そういうことこそが、人間が社会の中で生きて行くために必要とされることなのではないでしょうか。
僕らが映画や芝居を観るとき、僕らはそれぞれがそこから何を感じ何を考えられるか、言い換えれば、その作品に対してどういう全体像を持ち得るかを問われているのだと思います。「鑑賞」ってそういう作業なのではないかと、僕は思っています。
だから、力量を問われているのは演出家でも脚本家でもなく、観ている僕ら自身なのではないかという緊張感が、僕には常にあります。
だから、観るという行為は、ひとつだけあるテーマをするするっと引っ張り出してくるようなものではない、と僕は思っています。だから、ゆめゆめそれを直接作者に問うようなものでもない、と僕は思っています。
皆さんはどんな「鑑賞」観をお持ちですか? 皆さんはどんな世界観をお持ちですか?
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