意外に読まれている
【3月24日更新】 今日、とあるパーティで、もう何年も前に定年退職された会社の OB に会った。
「今はどこの部で何の仕事してんの?」と訊かれて今の所属と仕事内容を答えたら、「で、まだ書評書いてる?」と言われて驚いた。
「えっ? よくご存知ですね」
「今でこそ年のせいかパソコン開くのが面倒になってあんまり読んでないけど、一時は愛読者だったんだよ」
へえ、この人に読まれているとは思わなかった。ネット上のコンテンツってそんなものである。そう、意外に読まれていたりする。
書評を書いていることを知らせてもいないし、読んでくれと頼んだわけでもないのに、読んでくれている知人がいる──というようなことを言いたいわけではない。知人であろうと知らない人であろうと、それは不特定多数の読者のひとりなのであって、どちらであっても大した違いはないと僕は思っている。
僕が言いたいのは、ただ、書いた人の想像のつかないところで読まれているということである。
読まれたか読まれてないかはアクセス・カウンタの回るスピードで想像するしかないのだが、アクセス・カウンタというのはまさにアクセスしたというだけの刻印であって、実はページを開いた瞬間にほとんど読まずに別のページに遷移しているのかもしれない。
となると、書いた本人にとっての「読まれている実感」というものは、書いたことについてのメールが来るとか、コメントに書き込みがあるとか、そういうタイミンでしか得られないのである。が、かなりの人気サイトの管理人でない限り、メールやコメントはそんなにたくさん来たり付いたりするものではない。
というわけで、僕らは往々にして「誰も読んでないだろう」などと根拠なく思ったりしてしまう。そんな風に過小評価していたら読んだ人の怒りを買って炎上、なんてことはネット上でよくあることである。そう、意外に読まれているのである。
もっとも僕は、「あ、せっかく教えたのに、さては私のブログ読んでくれてないな?」と言われたこともある。そんなおめでたい人がいるのか!とびっくり仰天してしまった。当然、「そりゃ、URL教えてくれた時にはすぐに読みに行ったけど、その後もずっと読んでくれてるわけないでしょ」という台詞は口に出さずに飲み込んでしまったのだが…。
そんな人もいることを考えると、こう言い換えるべきかもしれない。
──ネット上のコンテンツって、意外に読まていれたり、意外に読まれていなかったりするものなのである。
読んでくれているのが知人であるかどうかということには、いずれにしてもあまり意味がないとは思うのだが。
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