映画『セイジ 陸の魚』
【2月19日特記】 映画『セイジ 陸の魚』を観てきた。女性客がほとんど(しかも、一人客が多い)なのでびっくり。
西島秀俊がいて、森山未來がいて、そこに新井浩文ほか。ほとんど紅一点で裕木奈江がいるが、ロマンスもアドベンチャーもなく、徹底的に無骨で男臭い映画だ。ここまで男臭い映画にこれだけ女性客が多いのはやはり西島秀俊の人気か? 森山未來や伊勢谷友介の人気も加わってのことなのか?
しかし、このストーリーはどうなのだろう? これでは「何だったの、これ?」とげっそりして帰る客もいるのではないかとちょっと心配になる。あまり頭の中が整理できないまま脚本を書いてしまったのではないか、と感じた。
が、そうではなかった。エンド・ロールで原作小説があることを知った。ということは脚本がまずかったのではない。選んだ素材が難しかったのである。
映画は「僕」(二階堂智)が20年ぶりに山中のドライブイン「HOUSE475」に向けて車を走らせているところから始まる。そこから後は20年前の「僕」(森山未來)の回想シーンになる。
「僕」は大学4年生。就職も決まり、学生生活最後の夏休みで気ままな自転車旅行にでかける。そこでカズオ(新井浩文)が運転する酒屋のトラックと接触事故を起こし、怪我は大したことなかったが、治療のために近所の「HOUSE475」に連れて行かれる。
そこには店のオーナーである翔子(裕木奈江)と雇われ店長のセイジ(西島秀俊)がいた。「僕」はなりゆきでそこに住み着いてしまう。
セイジはどこかしら影のある男である。無口で、いつも自分を突き放した態度で、他人にも関心がないように見える。しかし、時々痛いほど正しいことを言う。店には地元の若い連中や近所の医者などが毎晩集まり、セイジはそれなりに一目置かれている。「僕」はそんなセイジに惹かれる。
とてもきれいな画である。途中雲や風景の微速度撮影に混じって、カエルやカマキリのインサートが入るのさえ、なんとなく寓話的に見えてくる。
西島秀俊の抑えた演技がよく効いている。時々きれいな笑顔を見せるところも印象的で、要するにこのセイジという男のことはとてもよく描けている。「陸の魚」という比喩もよく解る。宮川一朗太と奥貫薫が扮する動物愛護団体とのエピソードも、セイジの人となりを見事に語っている。
だが、人物がよく描けているということと、観客がその人物に共感を持つということは全く別である。果たして、どのぐらいの割合の観客が共感を持ったのだろう? ナンダカワカラナイ???という部分をかなり残したのではないだろうか?──ひょっとするとそれは監督の狙い通りだったのかもしれないが…。
終盤大きな展開がある。セイジがどういう過去を背負ってきたかも語られる。そして、あの衝撃的な結末に至る──これは観客のシンパシーを呼ぶのだろうか?
呼ばないにしても、ものすごく印象的で、いつまでも心に残る映画であることは確かである。だが、ある意味で、最後の飛躍を、観客は超えられないのではないだろうか? 情は通っても理性で超えられないのではないか?
僕はセイジがゲン爺(津川雅彦)のところに歩いて行くシーンで、その先が読めてしまった。しかし、読めたと言っても、それは「僕もきっと同じことをする」という感覚とは程遠い。あまりに痛々しいではないか。
そして、終わり方も、いろんなことを放置したままだ(それが余韻に繋がっているのも確かだが)。
そのあたりがこの映画の難しさのような気はする。ただ、重ねて書くが印象は深い。
西島だけではなく、店の常連客を演じた新井浩文、渋川清彦、滝藤賢一の3人が素晴らしい。そして、僕には若いころの印象しかなかった裕木奈江が、しっかりした大人の女優になっていたのでびっくりした。そして、渋谷慶一郎の音楽も心に響いた。
僕は伊勢谷友介の監督デビュー作『カクト』(2003年)を実は映画館で観ている(ちなみにプロデューサは是枝裕和だった)。2作続けて観ている人は少ないのではないかと自慢したい気分だが、その割には例によってほとんど何も憶えていない(笑)
ただ、光と闇のコントラストが印象的な画作りだったことと、どちらかと言えば解りにくい映画だった記憶がある。案外そういう難解なところが伊勢谷友介の持ち味なのかもしれない(笑)
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