アカデミー授賞式
【2月29日特記】 月曜日に WOWOW でアカデミー賞の授賞式を観た。昼間の生放送ではなく、編集して字幕つけたやつ。全部観たわけではない。結果はすでに twitter で知っているから、誰がどの賞を獲ったか知りたかったのではない。それに、選ばれている過半の作品が日本で上映前のものであるから、どの映画が獲るのだろうというワクワク感もあまりない。
それでも観るのは、言わば賞ではなくショーに興味があるからである。
そう、毎年同じ気持ちで最低でも何分かは観ている。で、なんでこんなに面白いのかと毎年思う。
司会者やプレゼンターのジョークが面白い。ただ、冗談のセンスは日米でかなり異なる向きもあり、たまになんだかよく解らない、イマイチ笑えないのもある。
しかし、中には我々日本の視聴者だけではなく、会場の客も明らかに笑っていないのもある。要するにスベっているわけだ。
三流のコメディアンならいざ知らず、いずれ劣らぬ世界的な名優と言うか、セレブと言うか、そういうすごい人たちが、恐らくは一生懸命考えて用意してきたジョークが空回りするとは、胸中如何ばかりかと思う。
ただ、僕はすごい人がスベるのを楽しみに観ているわけではない。何と言うか、ショーのあり方の全てが素敵だから目が離せないのである。
どのプレゼンターも一様に、
And the Oscar goes to...
と言いながら封筒を開け、記された名前をケレン味なく読み上げる。グルグル回るスポット・ライトもドラム・ロールもない。
呼ばれた俳優なり、スタッフなりが壇上に上がる。
落ち着いて用意してきたコメントを述べる人もいる。パニックといって良いほど舞い上がっている人もいる。全身で喜びを表す人もいれば、泣く人もいる。ああ、こういう時に泣くのは日本人だけじゃないんだ、と改めて思う。
また、日本人みたいに懐からメモを取り出して芸なく音読する人もいる。そして、さすが移民の国、英語が訛っていて、ほとんど何言ってるのか聞き取れない人もいる。
スピーチの中心は、「○○監督のおかげ」とか「愛する妻に感謝する」などという、ほとんど個人に対する謝辞と賛辞である。
しかし、みんなが同じようなことを言っているように見えて、日本人の場合と決定的に違うのは、そこにはあからさまな「自分」の主張があるということだ。そもそも個人的な知り合いに対する感謝の言葉を壇上で述べるという行為自体が、日本人の感覚からすれば行き過ぎた自己の発露であり、公の場では避けるべき行為なのである。
しかし、恐らくこの授賞式では逆なのであって、名もないスタッフや家族に対する謝辞を述べないことのほうが野暮なことなのだろう。誰に対する感謝の言葉をどの順番で述べるかということが、まさに個性の表現になっており、自分が信じることの宣言になっている気がする。
単純で、スマートで、確固たるものがある。僕はアカデミーの授賞式をそんな風に観ている。
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