映画『サラの鍵』
【2月11日特記】 映画『サラの鍵』を観てきた。一昨年の東京国際映画祭で最優秀監督賞を受賞した作品らしいのだが、久しぶりに本当にしっかりと作られた映画を観たような気がする。
ユダヤ人を迫害したのはナチス・ドイツだけではなく、フランスの国家権力がそれに加担して76,000人ものユダヤ人を収容所送りにしていたということも、その事実をシラク大統領が1995年の演説で初めて国家として認めたということも、僕は知らなかった(多分後者の報道は目にしていたはずだが、忘れてしまったのだろう)。
そういうテーマの新しさ、厳しさもさることながら、目を瞠るのはストーリーを構成して行く確かな力である。
パリ在住のアメリカ人ジャーナリスト、ジュリア(クリスティン・スコット・トーマス)は、フランスでのユダヤ人迫害の史実「ヴェルディヴ事件」を調べているうちに、ひょっとして自分の夫が親から譲り受けてこれから自分たちが親子3人で住もうとしているアパートが、かつて強制収容されたユダヤ人の所有であったのではないかと思い至って調べ始める。
そうしてたどり着いたのが、そこに住んでいたスタルジンスキ一家である。
警察が来た時、サラ・スタルジンスキ(メリュジーヌ・マヤンス)は機転をきかせて弟のミシェルを納戸に隠し、外から開けられないように鍵を掛ける。すぐに助けに戻るつもりだったのだが、両親ともども収容所送りになり、何日も戻れなくなってしまう。
──この映画冒頭のあらすじを説明するとなると、こういう表現になる。恐らくこういう順番で説明するのが一番解りやすいと思う。しかし、ジル・パケ=ブレネール監督はこれをジュリアのシーンからではなく、サラのシーンから始める。この辺が上手い。そうやったほうが遥かにインパクトの強いオープニングになるからである。
その後、1940年代のフランスと、現代のフランス、アメリカ、イタリアなどのシーンが交互に展開される。この辺りの編集も大変適切で解りやすい。
そして、戦中のシーンでは、屋内競輪場(ヴェルディヴ)での天井を平行移動しながら真下の群衆を捉える映像がある。収容所で子供たちと引き離されそうになった母親たちが、警察官たちとぐちゃぐちゃの揉み合いになるハンディカメラの画がある。収容所を脱走して草原を逃げるサラたちの引いた画がある。
──いずれも非常に頑張って凝った構図を展開しているのに対して、現代のシーンでは、まるでドキュメンタリのように(とまでは言わないが)さりげない画作りをして、2つの舞台の対照を作り上げているところも上手い。
そして、収容所から脱走しようとしたサラを阻んだ警察官に、サラが名前で呼びかけると、一瞬その警察官がひるむシーンがある。僕はそのシーンがものすごく印象に残っている。テオ・アンゲロプロス監督の『旅芸人の記録』で、捕まって銃殺されるアガメムノンが自ら名乗り、相手の名前を問うたシーンを思い出した。
史実を追うジュリアと、理不尽な迫害から逃れようとするサラが絶妙の進行で継ぎはぎにされ、どちらの進行に対しても興味は尽きない。ジュリアの私生活上の問題も折り重ねられている。ベストセラー小説の映画化らしいが、おとなになったサラは映画がオリジナルに構築・造形したキャラだと言う。その辺の構成も本当に見事である。
そして映画は、幾多の苦難を乗り越えて、見事ジュリアが史実を突き止め白日の下に晒しました、めでたしめでたし、みたいな形では終わらない。そこには知らなかった事実を突きつけられた遺族の当惑や、ジュリアのジャーナリストとしての挫折なども公平に描かれている。
フランス映画を見るのは一体何年ぶりだろう。たまにはハリウッドの文法に則らない洋画を観るのも良いと思う。アメリカ的な胡散臭さがないのである。
そして、何よりもこの映画は、家族というものの多様なあり方を描いていると思う。それはハリウッドで一様に描かれてしまう強い家族愛とは異質のものである。そして、僕にとってはもちろんこちらのほうがリアリティがある。
そう、この映画は歴史上の迫害を糾弾する映画のように見えて、実は家族のあり方を問うた映画なのである。その辺りがとてもタフな作品だなあと思った。
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