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Friday, February 24, 2012

『持ち重りする薔薇の花』丸谷才一(書評)

【2月24日特記】 丸谷才一は、僕にとっては読むのが最後になってしまった大物作家だった。なにしろ初めて読んだのが2003年の『輝く日の宮』である。その後遡って『裏声で歌へ君が代』を読み、今作が3冊目になった。

読んだことのない時からずっと気になってはいたのである。ただ、「日本語の達人」という触れ込みに恐れをなしたということもあるし、いまだに旧仮名遣いで書いているという偏屈さに対する反感もあったし、「きれいな日本語が書けるだけでは仕方がないではないか」と高をくくっていた面もあった。ところが、読んでみるとそうではないのだ。

この作家は何よりもお話が面白いのである。稀代のストーリー・テラーなのである。ともかく話に引き込まれる。先が読みたくてどんどん進む。そして、文章がうまい作家であることを感じるのは全部読み終わってからなのである。

文章がうまい作家は読んでいて引っかからない。そんなにお前は読んでいて引っかかるのか?と言われれば、僕の場合は割合そうである。

「この場面でこの台詞は不自然ではないか?」「会話であるのにあまりに説明的ではないか?」「この文節はあの文節の前に持って行ったほうが文意が通りやすいのではないか?」「この力の入りすぎた表現は何だ!」──いろんなことを思う。

ところが丸谷才一を読んでいるとそんなことは全くない。それはプロの文章家として一番求められることなのであって、本当に文章が書けるということの証明なのではないかと思う。

さて、『輝く日の宮』を読んだ時に、「源氏物語にもっと詳しければもっと面白かっただろうに」と思ったのと同じように、今回は「クラシック音楽に造詣が深かったらもっと面白かっただろうに」と思う。

登場するのはブルー・フジ・クヮルテットという日本人の弦楽四重奏団と、彼らの名付け親で、年長のアドバイザーとして彼らを支える元経団連会長である。その財界の重鎮にジャーナリストがインタビューするという形で物語は始まる。

そして、『輝く日の宮』の時に「源氏物語にもっと詳しければもっと面白かろうに」と思う一方で、「しかし、あまり詳しくなくても、めちゃくちゃ面白い」と思ったのと同じことが、この作品でも起こる。それどころか、あまりクラシックに詳しくない者にさえ、クラシックの面白さが伝わってくるのである。この辺がやはりこの作家の腕なのだろうと思う。

この達人の作家は、決してこれ見よがしの衒学的なクラシック論を持ち出さないし、「どうだ!」と言わんばかりの派手な比喩や凝りまくった表現を弄することもない。作中に使われているビッグ・ワードは表題になっている「持ち重りのする薔薇の花」くらいのものである。これは作品の中ほどで、クヮルテットのあるメンバーのエピソードとして出てくるのだが、さすがにここぞとばかりのこの表現は見事に効いている。

作者は主人公にクヮルテットのメンバーを語らせる。彼らの音楽家としての凄さと、人間としての面白さとつまらなさを語らせる。彼らの女性関係を語らせる。そんなこんなの合間にクラシック音楽を語らせる。

そして、それを語る主人公と、それを書き取るジャーナリストを描くことによって、この二重構造の人間描写は完成するのである。とてもうまい。とても面白い。

あっさりとした終わり方である。これが物足りないという人もいるだろう。そこが粋なのだという人もいるだろう。

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