ソーシャルネットワーキングの不思議(いや、僕だけなのか)
【1月8日特記】 ソーシャルネットワークで他人の文章を読んでいると、とても不思議に思うことが多い。いや、彼らからしたら逆に僕のほうが不思議に見えるのかもしれないけど。
今日はハーフマラソン大会に出場した。公式の大会に出るのは初めてだ。自己ベストは切れなかったけど、そこそこ良いタイムで走れて満足している。
みたいなことを書いてあるのを読んで、これではまるで日記ではないか、と思う。確かに実生活で交流のある人が読めば、「あ、やっぱり出場したのか」とか「へえ、走るの趣味だったんだ」とか思ってくれるかもしれないけれど、それでは知っている人とだけのコミュニケーションだ。
いや、「知ってる人とのコミュニケーションで充分ではないか」と言われればまさにその通りである。僕はそういう文章を非難しようとか撲滅しようとか言うのではない。自分とあまりに違うので不思議に思うだけである。
僕の場合は、こういう全ての場を、不特定多数に対して自分の作品を発表する場だと心得ている。
僕はかねがね、何かを創作してそれを世の中に発表するような職に就きたいと思ってきた。そして、その願いが叶わなかった挫折感の中で、やっとのことで見つけたのがインターネットだった。
やった! ここで作品を発表できるぞ! ──一気にそういう光明を感じさせてくれたのがウェブだった。だから、(日記が悪いという気はないが、僕個人としては)こんな貴重な場所に日記みたいなことは書く気にならないのである。
読んで愉しんでもらえるとか、何かを世に問うとか、そういうことをやりたい渇望みたいなものがあるのである(実際に愉しんでもらえているか、世に意義ある問いを投げかけられているかは全く別の話ではあるがw──偉そうなことを言いながら、そこが弱いところではある)。
別に自分の書いたもので大向こうを唸らせようなどと考えているのではない。いや、違うかな。むしろ、できることなら自分の書いたもので大向こうを唸らせたいと思っている、と書いたほうが説得力があるのかもしれない。
もちろん、書くもの書くもの一つひとつで大向こうを唸らせられるはずがないことは知っている。それは自分の文章の力量ということもあるし、また題材の問題もある。他人にあっと言わせるほどの題材が毎日手に入るかと言えば、それもまた無理な話なのである。
しかし、それでも僕は、ウェブ上に文章を書くことは、不特定多数に対して著作を発表する場だと思っている。確かに、僕も日記みたいなことを書いていることもある。ただ、事実の羅列では終わらないように、起承転結を考え、余韻を残すために推敲を重ね、日々呻吟しながら書いている。
たとえその1編が作品と言うに値しないものであったとしても、全体としてひとつの作品であるブログなりSNSの自分のパートなりを構成する、意味のある要素であるという位置づけをしている。
それはホームページであってもブログであっても facebook であっても twitter であっても、基本的には同じである。
ま、さすがに twitter となると、少し「作品」的な位置づけからは遠くなるが、それでも知り合いとのコミュニケーションではなく、不特定多数に対するプレゼンテーションであるという構えは変わらない。少なくとも僕という人間を多少は知ってもらっていることを前提とした文章は書きたくない。
みんなどうしてそういう風に考えないのかなあ──他人の文章を読んでいると時々純粋に不思議な思いがするのである。
いや、別に他人が書いている内容を否定するわけでも軽蔑するわけでもない。それは自由だ。それを読んで楽しいと思う人がいるのも事実だろう。
ただ、自分と同じ考えでウェブに臨んでいる人があまりに少ないような気がして、純粋に不思議なだけである。
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