『日本のセックス』樋口毅宏(書評)
【12月27日特記】 昔から「ポルノは善か悪か、あるいは必要悪か」とか、そもそも「ここまでは芸術、ここから先はポルノ、みたいにきっちり分けられるものなのか」とかいう議論は幾度となく繰り返されてきただろうが、そんなものは分けられるわけがないし、どっちかが善でどっちかが悪なんてこともない。
同じものでもある角度から見れば芸術で別の角度から見たらポルノ、なんてこともなければ、同じものでもあるときは芸術になり、またあるときはポルノになる、なんてこともない。そもそも分明な境界の存在を想起するのが間違いで、ポルノを切り分けることも、それだけを規定することも無意味であると私は思っている。
ところが、この小説を読み始めて端的に持った感想は、「これはポルノである。ポルノ以外の何ものでもない!」ということであった。しかも、そこら辺のポルノではない。結構突き詰めた究極のセックスの姿なのである。
セックスという行為は基本的に日常性からの脱却に向かうので、それを極めようとする者は勢い「変態」に収束して行くことになる。ところが、どのような変態に向かうかは、これまた人によって千差万別で、それぞれに嗜好性もあり、嫌悪感もある。
例えば私は痛いのや汚いのは苦手なのだ。しかし、この本には少し痛いのも少し汚いのも出てくる。なのに読むのをやめられない。いや、そこに至る前に、小説冒頭からいきなりパイパンである。そしてカンダウリズムである。
カンダウリズムというのは自分の妻や恋人を他の男に犯させて性的快感を覚える男たちのことである。主人公の容子は夫である佐藤の希望によって、すでに300人の知らない男たちと交わってきている。
なんという設定だ。いや、しかし、よく書けている。なんだか読んでいて催してくる。これはポルノに違いない。ただ、やたら筆致の冴えたポルノである。やたら力量のある作家によるポルノである。
第二部「容子のいちばん長い日」で描かれる乱交スワッピング・パーティの終わりまでの190ページは、一気に畳み掛けてくる見事なポルノである。読者はそれこそ翻弄されてしまう。
ところが第三部に入ってから、ポルノの様子はすっと色褪せてくる。決してポルノであったものがポルノでなくなったなどと言うのではない。ポルノの色がすーっと引いて行ったのは確かだが、いきなりポルノでなくなったりもしないのも確かだ。
そこからはまさに小説的な世界がポルノの上に覆いかぶさってくる。ストーリーも動き出して事件が起き、大きな展開がある。ドン引き状態で読み始めた読者は一気に持って行かれることになる。どこに? ──日本のセックスの彼岸に、ということになるのだろうか?
小説内で引用される映画やら音楽やら禅の思想やら、その他もろもろがいちいち面白い。それがセックスとごっちゃになっている。それはまるで男女の体液がぐちゃぐちゃに交じるような世界である。
読んでげっそりする人もきっといると思う。でも、げっそりしても読んでみるべきだ、と闇雲に他人に勧めたくなる。おい、ヤバイよ、この小説ヤバイよ。
「『日本のセックス』って何じゃ、その変なタイトル?」と思いながら読み始め、最初の数十ページ読んだ辺りで「おいおい、これが日本のセックスって、そりゃないだろう」などと思いながら、結局読み終えてしまうとしっかり「このタイトル以外にありえない」と思っている。
そう、ただの変態の物語のようであり、これはあなたのセックスの物語なのである。そして、やっぱりポルノなのである。真正面からの怒涛のポルノである。とんでもない小説に強姦されてしまった。
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