映画『CUT』
【12月18日特記】 映画『CUT』を観てきた。日本中で上映しているのは2館のみということもあって、よく入っていた。
役者は全員日本人で台詞も日本語だが、監督はイラン人のアミール・ナデリである。アッバス・キアロスタミ作品の脚本を書いて注目を浴びた人で、今ではキアロスタミと並び称されるほどの監督なのだそうだが、僕は知らなかった。
僕がこの映画を観たのは、主演に西島秀俊、共同脚本に青山真治の名前があったからだ。
しかし、それにしても、あまりと言えばあんまりな映画である。この映画の8割がたは西島秀俊が殴られているシーンなのだから。
西島が扮する秀二は映画を撮っている。ひとことで言ってしまうと自主制作で、3本撮ったが全く陽の目を浴びないままだ。でも、彼の映画に対する情熱は猛烈で、自ら映画を作り、名画の上映会を主催するだけでは飽きたらず、街頭で拡声器を持ってアジ演説もする。
曰く「今の映画は娯楽映画ばかりだ。シネコンで糞みたいな映画を垂れ流して金儲けをしている奴らを許してはいけない。かつて映画は芸術であり同時に娯楽であった。そういう本物の映画を観なければならない」(僕の記憶で書いているので、正確な文言ではないが)。
その秀二に資金を提供してくれていた兄が死んだ。兄は組関係の仕事をしていて、兄の兄貴分であった正木(菅田俊)から1254万円の借金を返済しろと迫られる。それで、秀二は殴られ屋になる。「一発殴られていくら」で金を稼いで、期限を切られた2週間以内に全額を返済しようという自暴自棄な行動に出る。
兄の借金の返済を迫られたからといって殴られ屋になるというのは如何にも飛躍のし過ぎであるが、これは僕があまりネタバレにならないように端折って書いているからそうなのであって、そこに至る心の動きと言うか、追い詰められた感じについてはちゃんと描いてある。
非現実的な印象を与えてしまう部分があるとすればそこではなく、人を殴るために何万円も出す人間がそれほどいるかということだ。確かに金を持て余している高垣(でんでん)みたいな男も出てくるが、単なるチンピラみたいな男たちも多い。彼らがフーゾクにさえ出さないような金額を、単に殴るために払うとは思えないのである。
で、殴られるのは元ボクシングジムであったと思われる組事務所のトイレ。そこで、金を集めたり腫れた顔の手当をしたしするのが、その事務所内のバーの従業員・陽子(常盤貴子)とロートルの組員・ヒロシ(笹野高史)である。この2人がものすごく良い。特に常盤貴子は目を瞠る演技である。
秀二は何発殴られても映画への情熱によって耐え、自分が信奉する映画監督や作品名を唱えながら立ち上がる。このとんでもない想定がすごい。これはまさに監督の思いそのものなのだろう。芸術であり同時に娯楽であった世界の名作が100本以上引き合いに出される。
しかし、それにしても殴られる凄惨なシーンが続くばかりだし、そこまで映画について語られてもそれってどうよ、という感じもある。そんなことを言うあなたが理想的だと思うのが、果たしてこの『CUT』という作品なのか?──という意地の悪い質問もしてみたくなる。
僕はあまりにメッセージがはっきりしている映画は好まない。明確なメッセージがあるのなら、それはもっと直截に論文なり演説なりという形を採れば良いのであって、何も映像芸術の形を借りる必要もないと思う。
そうは思いながら、このあまりと言えばあんまりな映画を観て、やっぱりなんかざわざわと胸騒ぎがするのである。とんでもないものを見てしまったという気がするのである。
ナデリ監督は2005年の東京フィルメックス映画祭で西島秀俊と出会い、会った途端にピンと来るものがあったらしく、「日本映画を変えるような作品を一緒に作ろう」と言ったそうだ。そんな感じがちゃんと伝わって来る映画だった。
海外の映画祭で評判が良いのがよく解る映画でもある。穿った見方をすれば、映画オタクがうっかりと引っ掛かってしまう映画なんだろうなあとも思う。しかし、映画オタクだけに留まらず、今の娯楽映画を全く否定しない人の心まで、なんかこの映画は揺さぶってしまいそうな気がする。
ちょっと今の日本の監督にはこれは描けない世界だろうなと思う。それに一番近いところにいるのが、恐らく共同脚本を書いた青山真治なのかと思う。そう、青山真治のとんでもなさ、ヤバさに近い感じの、本当にとんでもない映画だった。
あの無音になるシーンがとても印象に残った。
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