『翼』白石一文(書評)
【11月29日特記】 この作家を読むのは『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』以来2作目であるが、読みながらまず思ったことは、あれ、こんなに巧い作家であったかな、ということである。
いや、それよりも、あまりにトーンが違うので、ひょっとしたら自分は何か勘違いをしているのであって、『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』の著者とは別の作家なのではないかと思ったほどである。
この作品では主人公は女性である。それがとてもよく書けている。女性の読者がどう感じるかは分からないが、男性の読者からすれば、ひょっとして書いているのも女性なのではないかと思わせるくらいの出来だと思う。
そして文章がとてもスムーズに流れて行く。本当に巧い文章というのは読んでいる者が巧いとも下手だとも感じる隙を与えない文章である。これくらいこなれた文章を書ける作家にはそうそう巡り会えるものではない。
前に読んだ時には、多分この作家は派手目のストーリーをうねらせて行くことが得意なのだろうと思った。しかし、今回は非日常的な面もあるが、決してドラマチックな展開でもなければサスペンス・タッチの進行でもない。むしろおとなしく観察された深い物語という気がする。
そんなことを思いながら一年半前に自分が書いた書評を読み返すと、「まっすぐに死生観に繋がって深く掘り下げて行く、むしろ一途な感じの作品なのだと思った」とある。ああ、そうか、その部分はずっと共通なんだ、と思う。
そんなことを思いながら改めて本の帯を読むと、「テーマ競作小説 死にざま」とある。6人の作家が同じテーマで書いているのである。しかし、これこそは白石一文のために与えられたようなテーマではないか。
三十歳を過ぎたばかりの仕事のできるOL・里江子と、その親友の夫である岳志の物語である。──と書くとどろどろの不倫小説と思われるかもしれないが、そんな話ではない。もうちょっと一筋縄では行かない不思議な話である。
何しろ交際相手の親友として初めて会った翌日に、里江子はいきなり岳志からプロポーズされるのだから。この岳志を突き動かす不思議な確信を軸に物語は展開する。肉体関係は、この小説では完全にテーマから外れている。
途中から岳志が熱心に語り始めて、すんなり流れていた物語が少し理屈っぽく滞ってきたなあと思ったのだが、そこからの運びがとても巧い。結末まで意図的に書かずにおいたことを一気に公開する書き方は少しあざとい感じもあるが、これまた作者一流のテクニックなのだと思う。
そして、この、ある種ぶっきらぼうな終わり方も、まさに著者の「死」に対する諦観を反映したものなのだろう。
前回の書評の表題に僕は「意外に軽い、だが一途に深い」と書いた。今回は軽くはない。だが、依然軽やかではあって、そしてやっぱり一途に深い。
最初に『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』を選んで読んだのは失敗であったかもしれない。この作家の懐は多分僕が思うよりもずっと深いのである。読み終わってすぐに、もう次の作品を読むしかない気になっている。
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