『恋文の技術』森見登美彦(書評)
【8月8日特記】 本屋で見つけて何となく惹かれて買った。文庫が出てから読むのは最近の僕としては珍しいことである。
書簡小説の形を採り、恋愛の指南書のように見せかけて、実はいつも通りイカキョーの情けない青春をペーソスたっぷりに描いた小説である。特に何人かの登場人物の書簡を、交互に時系列に並べるのではなく、人ごとにまとめる構成にしたのもアイデアである。
そういう意味では非常に森見登美彦的な作品でもあり、いつもの森見を超えた小説でもある。ただ些か遊びすぎの感がなきにしもあらず、なのである。
いや、遊ぶのはいつものことで、いくら遊んだって構わないのだが、しかし今回はそれが少し上滑りしてはいないかい?という感じ。
面白い読み物に仕立てようとするあまり、如何にも作り物感があって嘘っぽい。日本語の物語は誇張が過ぎると滑ってしまう典型のような気もする。
とは言え、もちろん全編にわたって滑っているわけではない。
ヒトが四つん這いだった時代にはおっぱいは見えなかったから「お尻の時代」が続いたが、二足歩行するようになっておっぱいが注目をあびるようになった(128ページ)とか、美術展の素晴らしいところは一緒に行った彼女の横顔が見られるところだ(184ページ)とか、これは森見でなければ書けない、いや、観察できない、思いつかないというような見事な描写もところどころにある。
しかし、それはあくまでところどころなのであって、やっぱりちょっと引いてしまう部分が多い。特に作家が自分の小説の中に自分自身を登場させて、主人公である語り手に語らせてしまうというのはどうも悪趣味、あるいは悪乗りという感じで、読んでいるほうはなかなか乗り切れないのである、途中までは。
ところが、やっぱり最後にはこの作家が力量を見せてくる。最後の第十ニ話になってまるでギアチェンジしたみたいに一気にスピード感が出てくる。細かなギャグ以外はおふざけを概ね抑えて、主人公の伊吹夏子さんへの渾身の手紙が披露される。
ここまで来て初めて、あ、やっぱりこの作家は巧いのだと気づかされるのである。上滑りした感じも、全てはここに至るための助走路だったのである。
「なぜあんなにも夢中になったのであろうと考えるに、それは手紙を書いている間、ポストまで歩いていく道中、返信が来るまでの長い間、それを含めて『手紙を書く』ということだったからだと思います」(333ページ)と主人公は述懐する。
手紙なんかほとんど書いたことのない世代もそんな風に思ってくれるのかどうかは解らないが、僕らの世代は間違いなく、ああ、そうだったと思う。
そして、恋愛の真髄に思い当たるのである。見事な本であった。
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