無題
【8月26日特記】 古いものはどうして新しいものに敵意を抱くのだろう。旧いメディアはどうして新しいメディアを敵視するのだろう。
思えばテレビは長らく「新しい」メディアの側にあった。新聞はテレビを批判し、週刊誌はテレビの失態を嗤った。映画はテレビを「電気紙芝居」と愚弄し、高名な評論家は「総白痴化」と嘲笑した。
しかし、テレビはどうだったか。新聞の悪口も週刊誌の悪口も映画の悪口もあまり言ったことはなかったのではないか?
それどころかテレビは劇場用の映画を買ってきてテレビで放送し、新聞や週刊誌の記事を番組のネタに組み入れてきた。そして、少し胡散臭い人たちも含めて、評論家という評論家を片っ端からテレビに引っ張り出してきた。
ところがインターネットが出てきた途端にテレビはそれを憎むべき敵だと見なし、そして何故だか足がすくんでしまった。いや、もちろん一般論だ。そうでないテレビマンもいる。だが、総体として、テレビはインターネットを敵だと見なしてきた。
今日『ナレッジキャピタル トライアル2011』というイベントで(株)ニワンゴの杉本社長の話を聞いていて、「ああ、この人のほうがよほど、今現在のそれぞれのメディアが占めている位置がよく解っている」と思った。世界地図がちゃんと書けていると感じた。
そして、それぞれのメディアの特性と位置づけをちゃんと定義し措定した上で、異種メディアの協同による新しい世界観を聴衆の前に広げて見せていた。
それに対して、旧いテレビの連中は、いや、テレビの旧い連中は、全然世界が描けていないのである。あの海の向こうには化け物が棲んでいて、そこから先は世界が終わるものと信じ切っている。
あっちが儲かればこっちが損をすると思い込んでいる。それはアダム・スミス以前の世界観/経済観ではないか?
あまりに遠いゴールに僕は時々呆然とする。
そもそも今日の講演を聴きに来るのが僕では意味がないのである。それを聴いて帰って社内を説得するのがお前の役目だという人もいるのだろう。しかし、今日の講演を聴きに行ったという時点で、僕は既に敵方のスパイか、怪しい新興宗教に取り込まれた犠牲者という目で見られている。
テレビは今こそ、かつて自分たちがどのように見られてきたかを思い出すべき時に来ているのに。
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