映画『蜂蜜』
【8月19日特記】 映画『蜂蜜』を観てきた。あちこちの映画賞を受賞したトルコ映画(資本としてはトルコ=ドイツ合作)である。監督はセミフ・カプランオール。
この映画はユスフを主人公とした3部作の最後である。ただ、一般的なシリーズものと違うところは、第1部『卵』では中年の詩人・ユスフが描かれ、第2部『ミルク』では青年期のユスフが、そしてこの第3部『蜂蜜』では小学校時代のユスフが、という風に時代を遡って描かれているということである。
それは、このユスフという詩人が一体どのようにして作られて来たかということを、まるで一枚一枚皮を剥いで行くように描いた映画なのだそうである。
ただし、僕の場合はこの『蜂蜜』が初めてである。時代順に見るのであればこれが最初というのも間違った見方ではないとは思う。ただ、一切の予備知識なしに見るには少ししんどい面もあった。
「濃やか」という表現をご存知だろうか? こう書いて「こまやか」と読ませる。──僕がこの映画を観て思い出したのは、この、漢字で書いた「濃やか」という表現だった。
この映画を評論したり宣伝したりしようとする者が真っ先に思いつくのは恐らく「静謐」という表現ではないかと思う。そして「映像詩」という括り方ではないかと思う。いずれも、この映画のためにあると言っても過言ではないくらい、この映画にぴったりの表現である。
しかし、残念ながら「静謐」も「映像詩」も、かなり手垢に塗れた常套句である。この映画に常套句は使いたくない──そう思った僕が最初に思いついたのが「濃やか」という表現だった。
「濃やか」は「細かい」のとは全然違う。「情が濃い」ということである。そして「濃密」だということである。ベタベタしているというのとも違う。そう、この映画も見た目はさらっとしている。その上で、言うなればそのさらっとしたシーンを覆っている空気の層が濃密なのである。そこには濃やかな感情が網の目のように張り巡らされているのである。
物語は養蜂家の父と、その息子で、緊張すると吃音になってしまう小学生のユスフの物語である。さまざまな道具を自分の手で作り、その道具を持って山に行き、「蜂箱」を仕掛けて蜂蜜を取って帰ってくる、まさに職人然とした父親のことをユスフは大好きなのである。
その父が死んでしまうまでの思い出を連綿と綴ってあるのがこの映画である。いや、そんなありきたりの表現では伝わらないだろう。なんとも形容しがたいのである。しかし、なんと見事な情感を描いた映画であることか!
ユスフ役のボラ・アルタシュの表情が素晴らしい! そして、構図の深さ!
奥にユスフがいて手前に父や母や同級生がいる。手前にユスフがいて、奥から誰かが見ている。そして、手前から奥に、奥から手前に、家の中を、森の中を、家から森へ、森から家へ、森の中からもっと森の奥までユスフが駆けて行く。
たびたび縦方向にストーリーが展開する。冒頭の長回しがそうだ。そう、カメラは基本的に長回しだ。そのカメラが、息を飲むような人の表情や森の息吹を捉えている。
ただ、そうそう解りやすい映画ではない。細かいエピソードがどう繋がって行くのかがはっきりとは見えてこない。ゆっくりしたリズムも手伝って、観ていて眠くなるところもある。一瞬寝てしまったから解らないのかと思ったりもするのだが、そうでもなさそうだ。
人が死んだのかと思ったら死んでなかったり、死んでないのかと思ったらやっぱり死んでいたり…。夢や幻想なのかと感じるシーンもあるのだが、あまりそういう設定はされていない。幻想的な風景ではあるが、必ずしも幻想ではないのである。いや、幻想であれ現実であれ、ユスフの頭の中でしっかりと固着した映像なのである。
だから、なんだか分かりにくい映画なのに、見終わった後印象が薄れて行かないのである。それはどんどんどんどん濃密になる。濃密になって観た者の心を虜にしてしまう。
台詞はとても少ない。BGMは全くない。静かな映画である。ただ映像だけが、決して雄弁な感じもないのに、知らないうちに僕らの心の襞という襞に染み込んで来ている。それを僕は「濃やか」という表現に託してみた。
映画を撮ることは発見すること、もっと言えば、映画という鏡を通して自分自身を明らかにすること
カプランオール監督はプロダクション・ノートにそう記しているらしい。僕も全く同感である。ただし、僕の場合は「映画を撮ること」を「映画を観ること」と置き換えての話であるが。
見終わってまず「なんか解らんかった」と思い、でも、いつまでもこの映画のことを考えている自分がいることに気づき、そしていつしか「もう一度観たい」と思っている──そんな映画だった。もう一度見れば間違いなくもっといろんな自分を発見することになると思う。
外画としては久しぶりにとても深いものを観た。
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