映画『SUPER 8/スーパーエイト』
【7月9日特記】 映画『SUPER 8/スーパーエイト』を観てきた。スティーブン・スピルバーグのプロデュース作品。監督はJ.J.エイブラムス。
筋を書くとネタバレになるし、ま、多くの人が取り上げるであろうハリウッド作品なので、僕がストーリーについて詳しく書くのはやめておく。
ただ、映画が始まってすぐの列車事故のシーンの壮絶さから、ついつい“そっち方面”を期待してしまった観客には評価は低いのだろうなあと思う。しかし、僕にはとても良い映画だった。
それは構図である。はあ、映画の画というやつはこうやって作るのか、これが構図というものなのか、というシーンが目白押しだ。本当に“綺麗な画”が続く。こういう映画こそがイメージとして記憶に留まるのである。
どこがどうとは言いにくい。
人物を撮る場合でも、上から見下ろして撮るのと下から見上げて撮るのでは受ける印象が異なる。背後に映っているものが何なのか(例えば上からなら地面だろうし、下からなら空だろうが、正面からの場合でも、すぐ後ろに迫った壁なのか遠くの景色なのかで全然違う)、カメラがゆっくり動いているのと、ピクリとも動かないのでも与える印象が違う。
そういう辺りが見事に適切で、何か言葉ではなく画で訴えてくるものがある──それが構図の凄さだと思う。
例えば、主人公の少年ジョー(ジョエル・コートニー)が自転車で墓地(そこには亡き母が眠っている)に入ってくるシーンの優雅な美しさ。
例えば、ジョーとアリス(エル・ファニング)が部屋で一緒に8ミリを観ているシーンでの、真ん中に映写機を挟んで、左にこちらを向いたアリス、右に、アリスより少し深い位置に同じくこちらを向いたジョーを配し、アリスに焦点を当てジョーを少しぼかした(でも、表情は判る)構図の狙いの確かさ。
そんな例が山ほどある。いや、単にテクニカルな問題ではない。同じようにひとりの人物を撮る場合にも、そのサイズをどうするのか、画面のどの辺に置くのか──そういう、つまり“センス”としか言いようのない部分の卓抜を、僕はこの映画で見たような気がするのである。
ちなみに撮影監督のラリー・フォンはエイブラムス監督の盟友で、実に少年時代からの映画仲間、それも同じ町でともに“スーパーエイト”で映画を撮っていた仲間なのである。
そして、彼らに切り取られるエル・ファニングとジョエル・コートニーの表情が本当に素晴らしいので、良い画がますます良い画になって、観ているものの心に刻みつけられるのである。まさに瑞々しいという表現がぴったりだと思う。
ただ、この映画の設定や展開にははっきり言って非常に甘い部分がある。もし設定が甘いのでなければ、映画として説明不足である。かつてスピルバーグが監督を務めた『未知との遭遇』や『E.T.』、あるいは大ヒットした『エイリアン』シリーズなどと比べると明らかに見劣りする。
見終わってから、あれは何だったんだろう、と釈然としない部分が多すぎるのである。
しかし、それは“単なる SF もの”であると思って見てしまった人たちの感想だろう。僕は、確かに最初の壮絶な列車事故とそれに続くシーンには引っ張られたが、途中からは何の疑いもなく青春ドラマ、それも群像劇として見た。
逆にそういう目で観てあげないと、これはとても気の毒な映画になってしまうのではないだろうか。
あの“謎の存在”の設定は確かに今イチ何だかよく解らなかったが、青春期の登場人物たちはとてもよく描けていたと思う。1970年代終りの少年期にスーパーエイトでの撮影に没頭していた監督とカメラマンが、その当時の、まさに映画作りに夢中になっている少年少女を描いた映画なのである。
その辺の思い入れの深さはたっぷりと伝わってきた。僕はそれだけでも見る価値はあったと感じた。
それにしても、『マイ・シャローナ』の大ヒットとスリーマイル島の事故が同じ年であったことを、この映画で初めて認識した。
Comments