映画『東京公園』
【6月18日特記】 映画『東京公園』を観てきた。青山真治監督。
最初に思ったのは、観ていても登場人物同士の関係性が却々見えてこないということだった。それは僕がストーリーについて何の予備知識もなく観に行ったのがいけなかったのかもしれない。しかし、結局それで大正解だったと自分では思っている。
初めのほうのシーンに、写真集の表紙や著者名、主人公の光司(三浦春馬)の部屋に貼ってある大きな写真などという形で出て来る志田京子(井川遥)という人物を、僕は、単に春馬が憧れている著名な写真家であり、今もどこかで活躍している人物だと思っていた。
それが途中で光司の亡くなった母親であると気づいた。言われてみれば光司の苗字も志田であったが、そんなことを彼が苗字で呼ばれた最初のシーンで気づくはずもない。
そして、光司がアルバイトしているバーに客として現れる美咲(小西真奈美)を、僕はなんとなく恋に至る直前くらいの感じで引き合っているカップル予備軍なのだと思っていたのだが、実は血の繋がらない姉弟だった。これは彼らが病気で入院した母親を見舞いに行くシーンで初めて気がついた。
確かに2人の最初のシーンで光司は美咲を「ねえさん」と呼んでいた。ところが、これを僕は実の「姉さん」ではなく、ふざけて呼びかけた「姐さん」だと勝手に解釈していたのである。
そして、富永(と、光司は苗字で呼ぶ)(榮倉奈々)は光司の幼馴染みであるが故に今すぐ恋には結びつかないものの、やがては美咲の恋敵として現れるのであろうと見ていた。
ところが、富永は光司の亡くなった親友であるヒロ(染谷将太)の元カノで、亡くなってからまだ日も浅く、富永も全く吹っ切れておらず、とてもじゃないけれど光司と恋に堕ちるようなシチュエーションではなかった。
そして、このヒロも既に死んでいる人物であると判るのは映画も序盤を過ぎる頃になってからである。
こうして、僕が勝手に思い込んで見ていた関係性は一旦悉く裏切られるのであるが、意外なことに映画の進み行きに従って、この関係性は壊れてくるのである。この関係性は変容してくるのである。
そう、この映画は人と人との関係性を見つめ直す映画なのである。
思えば僕らは最初から親と子であるとかきょうだいであるとか幼馴染みであるとか、そういう関係性を自ら規定して、そのことによって自らを縛って生きているのである。そして、もし、そのくびきから自分を解き放つことができたなら──その時ひょっとすると僕らの魂は浄化され、新しい出発点を与えられるのではないか?
──僕はこの映画をそのように読み解いた。
いや、映画というものは別に読み解かなければならない代物ではない。ただ、この映画は僕にそのように読み解かせてくれた。感じさせてくれた。そう、観客にものを考えさせる映画は立派な映画だと思う。
これは「観客が独自の解釈をするのを、寛大な監督が許してくれている」というような感じのものではない。詰めきらず語りきらず、そのため自然と考える余地が放置されるのである。
例えば、美咲が島の風景を見て涙するシーンでは、何故泣いているのかが全く語られない。しかし、語られないからこそ観ている者は解るのである。心に響くのである。もし、中途半端に語られたなら、きっと「なんで泣くのかさっぱり解らない」シーンになってしまっただろう。
──そういう要素がものすごく強い映画である。
趣味で毎日公園で写真を撮っている光司は、ある日見知らぬ男(歯科医の初島)(高橋洋)からある女性(井川遥)を尾行して写真を撮ってくれと頼まれる──この映画の紹介文は大体こんな風に始められるのだろうが、これはその男と女、そして彼らの関係性を推理するドラマなどではない。
このエピソードはまるでプロローグとエピローグのように映画の前と後ろを固めているが、途中では随分薄くなる。このエピソードは少し脇に追いやられて、他の人間たちの関係性に焦点が当たるのである。
だが、このプロローグとエピローグは大変よく効いている。あの最後のシーンの美しさ、そして心が解き放たれるような感覚を体感してほしい。余韻とはこういうものかと解るであろう。
光司と富永が会話するシーンの多くはワンショットの切り返し、切り返し、である。なんでこんな面倒なカット割りをするのか。そこには制作者の意図がある。
終盤、木の根っ子のところで初島と光司が会話するシーンでは、寝転んでいる初島はフルショットであるのに光司は首から下しか映っていない。何故こんなへんちくりんな構図にするのか。そこには制作者の意図がある。
僕らはそれを「多分それはこれこれこういう意図です」と解説することはできないが、その意図は、あるいは意図性は充分に感じられる。
ひとつひとつのカット、シーンがとても美しい。特に最後のほうで光司が美咲の部屋を訪れるところなど、見ていて胸が熱くなってきた。
三浦春馬、榮倉奈々、小西真奈美の3人が、それぞれ信じられないくらい素晴らしい芝居をしている。
そして、原作からは設定を変えた部分もあるらしいが、この何も起こらないようでありながら多くを語っている原作小説(小路幸也)にも僕は取り憑かれてしまった。一度読んでみずにはおられない。
上で書いたように、映画というものは必ずしも読み解かなければならないようなものではない。しかし、それは必然的に観客の感性が試されるものである。「試されるなんて、そんな面倒くさい映画なら観たくないわ」という御仁もおられるかもしれないが、しかし、観客は不可避的にその感性を試されるのである。
僕は常にそんな風に思っているのだが、とりわけこの映画からは改めてそういうことを強く感じた。
これは青山真治監督でなければ撮れない映画である。脱帽である。感無量である。そして、スポーツの後のような脱力感がある。素晴らしい映画であった。
★この記事は以下のブログからTBさせていただきました。
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