書いているうちにまとまってくることってある
【5月19日特記】 書いているうちに考えがまとまってくることってある。
今日 facebook のとある非公開グループで、ある人の投稿にコメントをつけた。
詳しく具体的に書いていたわけではないので、一体彼女が何で悩んでいるのか僕には定かではなかったのだが、ともかく恐らく仕事上のことで悩んで凹んで焦ってテンパッてるという投稿だった。僕は何か言ってあげたくて書き始めた。書き始めたときに考えがまとまっていたわけではない。
どうしようか? 先にそのコメントを掲載しようか。
僕が書き上げたのは以下の通りのコメントだった(一部加筆修正済み):
関西人ですけど何か?(笑)
若きウェルテルであった僕が、自らのガシガシの心から解き放たれたのは2つのものの見方によるものでした:
- ひとつは「僕ひとりで世界が完結するのではない」
- もうひとつは「みんな僕のことなんか興味ないんだ」
とりあえず、今回後者は関係なさそうですが、前者について言うと、ついつい自分で全てを背負って自分ひとりで完結しようとしてしまうのだけれど、世界は決してそんな仕組みでは動いていないということに気づいたということです。所詮世界の部品としての自分を認識したということです。
それは決して卑屈とか謙虚とか、そういう観点の話ではなく、「外へ出る」ということです。自分が直接の対象物に対して何ができるかではなく、自分を含む世界に対して自分がどういう作用を加えてどういう影響を及ぼすことができるのかを考えるということです。
「一部を担う自分」と「全体を見つめる自分」を並立することです。これが「全体をひとりで担う自分」と「一部だけを見ている自分」になってしまうと悲惨です。
――なんて、あくまで論理的に構築して行くことによって全てを乗り切ろうとするのが僕の一番楽な、そして納得の行くやり方。これが苦手な人もいるでしょう。そういう人にこういう説教めいた話は意味がないのですが、書きたくなるのは年のせいでしょうなw
「今回は関係なさそう」と書いている「後者」については、実はずっと前から考えていることで、このブログにも何度かそういうことを書いている(例えば2006年10月の『自意識の怪物』や2007年9月の『自意識と安堵』など)。多分HPのほうにもなにか書いているだろうと思う。
そういう意味で、この「後者」、即ち自意識過剰からの解脱のほうは割合考えがまとまっている。しかし、「前者」、即ち「世界は完結しない」ほうの話は、漠然とそんなことを思っていたのは確かであるにしても、こういう風に表現としてのまとまりを伴ったことはなかった。
これは書いていて初めてまとまったのである。こういうことがあるから僕は書くことが好きだ。
僕がこれを書いたことが彼女にどれほど役立ったかは知る由もない。そんなことよりも僕は考えが表現としてまとまったことが、しかも2つの対句を組合せたきれいな表現に落ち着いたことが嬉しい。
考えがまとまり、表現として落ち着くと、それは生きる指標になる。
書いているうちにまとまってくることってあるのである。だから書くことを止められないのである。
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