『青春の門 挑戦篇』五木寛之(書評)
【5月26日特記】 ともかく何年ぶりだろう。第1部<筑豊篇>の連載が始まったのが1969年らしいが、僕らはそれがまず単行本で出て、それから文庫本になって初めて読み、次の編が文庫本になったらまた買い、というのを繰り返していた。<筑豊篇><自立篇><放浪篇>の3部を読んだのが多分1970年代の半ば、そのあと<堕落篇><望郷篇>と続き、最後の<再起篇>を読んだのは恐らく30年近く前だろうと思う。
だから、今さら、と言うか、漸くこの第7部が文庫で発売されているのを見つけて小躍りしながら買ったものの、実はもうほとんど憶えていないのである。信介は一体今どこにいたのか、織江はどこで何をしていたのか、そして他にはどんな登場人物がいたのか、ほとんど思い出せない。
それが不思議なことに、読み始めると次第に次第に甦ってくるのである。ストーリーや設定だけではなく、中高大を通じて読みふけったあの頃の感動も併せて。そう、それは五木寛之の書き方による部分も大きい。まるで前の篇の読者がすでにいろんなことを忘れているのを見越しているかのように、かなり親切に振り返っての記述があるのである。
しかし、それにしても今読んでみて、こんなにも説明的な文体だったのかと驚いた。今初めてこの小説を読んだのであれば、僕は決して高く評価しなかったのではないかと思う。
こんなことがあった。信介はこう思った。あんなことになった。信介はこう考えた。そういう淡々とした繰り返しの構成である。他の人物の内面は語られない。そして、心理描写も風景描写もばっさりと省かれている。それがスピード感に繋がっているのは確かだが、文学としてはちょっと物足りない感じも正直否めない。
だが、それにも関わらず読者がこれほど惹きつけられ引きずり回される小説は他にはないだろう。それはひとえに五木寛之のストーリー・テラーとしての非凡さに所以するものだと思う。
それまでの普通の小説だったら、主人公の少年が故郷を後にするときには「必ず帰ってくるぞ」と誓うものなのだが、この小説では信介は「もうここには二度と戻らない」と誓って福岡を後にする──そんなことが確か、筑豊篇の巻末の解説に書いてあって、僕らは信介のそういう生き方にしびれたのである。
しかし、信介という人間はそれほどふっきれているわけでもなく、きっぱりと故郷を捨てたわけでもない。心の中では何度も何度も故郷のボタ山を思い出し、父・重蔵と母・タエの面影を抱き、幼少のころからずっと想い合って生きてきた織江とはくっついたり別れたりを繰り返しながら、でも、決してその愛は途絶えない。
信介自身の生き方も、何かきっぱりと心に誓ったことに従って突き抜けるのではなく、いつまでたっても自分が何をしたいのかを探す旅である。だから、ものすごく周囲に流される。
しかし、それだけ流されて翻弄されながらちっとも凹まない強さがあり、そこからともかく何かを学ぼうとするしたたかさがある。別れ道では必ず未知の行先を平然と選ぶたくましさと度胸がある。
僕らはひょっとしたら信介より目的意識はちゃんとあるかもしれない。しかし、こういうしたたかさと度胸には遠く及ばない。だから、内心こいつは一体いつまでこんな風に生きて行くんだろうと呆れながら、しかし、目が離せず、結局この大河シリーズにずるずると引きずり回されることになる。
読んでいると、緒方が出てきて、トミちゃんが出てきて、丸玉のおやじが出てきて、西沢記者が出てきて、カオルさんまで出てきて、あの頃読んで胸を熱くした思いが次第に次第に甦ってくるのである。
そしてまた信介は北方領土からシベリアに渡ろうとするところで<挑戦篇>は終わる。この後どうなるのかすごく気になる。しかし、ひょっとするとこれが僕らが読める最後の『青春の門』なのかもしれない。だが、それも仕方がないような気もする。だって、信介の旅は終わらないのである。
僕はこの大著を、今の若い人にこそ読んでほしいと思う。いつまでも自分探しにうつつを抜かしてばかりで何も決めようとしないという悪評芬々たる世代に。
信介の生き方は彼らと似ているようであって似ていない。僕らの世代と似ているようでもあって、やっぱりどこかが決定的に違う。これは誰もがそういう風に感じられる小説である。そして、どこが同じでどこが違うのか、それを探るために、きっと読むのを止められないシリーズなのである。
もし時間があればもう一度<筑豊篇>上から読み直してみたい気になった。
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