『日本辺境論』内田樹(書評)
【5月3日特記】 話題になった本である。帯によると「新書大賞2010」第1位になった本である(そんな賞があることを初めて知ったが)。
そして「養老孟司さん絶賛」とあるが、読んでみると著者である内田樹が自ら「これは養老孟司さんからの受け売りです」と何度か書いているところがあり、なるほど、そりゃそうだろうと笑えてくる。例によってインチキ臭くて正しい内田樹の名文である(こんな書き方するとこの書評の評価は下がってしまうんでしょうけどw)。
内田樹の面白さはひっくり返したものの見方である。もっとも内田樹にしてみれば従来の見方のほうがひっくり返っているのだろうが…。それを「あんたたち、逆立ちしてるよ」と指摘してくれる町のご隠居が内田樹なのである。
そして、内田樹の魅力の第二は解りやすさである。論理の明快さもあるが、叙述の巧さもある。時としてかなり前の方に結論を書いてしまう。書いてしまうだけではなく「結論を書いてしまいましたが」と明確に宣言してくれる。このお茶目さが読者の理解を助けるのみならず、読者の気を逸らせない。
ここでは「辺境性」というキーワードで日本人を輪切りにして行く。大雑把に触っておいて話があちこちに飛ぶ。その繰り返し。本人が言う「ビッグ・ピクチャー」あるいは「大風呂敷」である。
第1章・2章は非常に分かりやすい。平たく言うと「日本人には自分がない」という、従来から何度も言われている論に近い。しかし、「辺境」という地理的関係から日本人の根源を捉え直したところが内田の独創性である。まさに言い得て妙の日本人論である。
そして内田の内田らしさ、かつ確固たる論理性はここからで、彼は第1章の終わりをこういう記述で締める。
こういうことを書くと、「なるほど、それが日本人の限界なのですね。では、アメリカや中国のように指南力のあるメッセージを発信している国を見習って、わが国も発信しようではありませんか」というふうについ考えてしまう。私の本がそういうことを主張しているというふうに「誤読」してしまう。あのですね、それが「世界標準準拠主義」であるということを先程から申し上げているんです。(98ページ)
これが内田樹なのである。で、余談だが、この「あのですね」が如何にも内田樹らしい(笑) そして、彼はこう続ける。
私が「他国との比較」をしているのは、「よそはこうだが、日本は違う。だから日本をよそに合わせて標準化しよう」という話をするためではありません。私は、こうなったらとことん辺境で行こうではないかというご提案をしたいのです。(100ページ)
そう言われるとなんだか肩透かしである。ご都合主義のような気もする。しかし、そういう結論にするしか、もう日本人を救い上げる方策はないような気もする。確かに救いの感じられる前向きな提案であるような気がしてくるから不思議である。
第3章になると少し観念的・抽象的な話も混じってきて難しくなってくる。しかし、それは逆に内田の専門分野の知識によって補強されているということの証左であって、この3章によって論旨はさらに屈強なものとなる。
ところが、最後にまた眼から鱗の単純明快な結論なり提言なりが書いてあるのかと思ったら、なんだかするりと終わってしまう。大きな風呂敷包みがふわりとほどけるように。
ま、あとは自分で考えろということか。あるいは一緒に考えて行きましょうということか。ともかく、ここで考え終えてはいけないということなんだろう。
なんだか煙に巻かれたようないつもの内田樹である。知的ゲームであるように見えて、実は生きるための本質に触れているいつもの内田樹である。
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