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Tuesday, April 19, 2011

『オジいサン』京極夏彦(書評)

【4月19日特記】 これは変な本に手を出してしまった。

僕は時代小説をあまり好まないこともあって、京極夏彦の小説を読むのはこれが初めてなのである(京極原作のドラマや映画は何本か観ているが…)。で、初めて読む京極作品がこの小説とは、我ながら「それは違うだろ」という気がする。

江戸時代の話でもなければ怪談でもないし、妖怪も出てこないどころか、出てくるのはほとんど爺さんひとりで、しかも何も起こらないのである。全編を通じて年寄りの繰り言が延々と続く。いや、繰り言ではないかな、世迷い言と言ったほうがぴったり来るか。

いずれにしてもこれは「そんなもん読んでどうする?」と自分で自分にツッコミを入れたくなるような小説である。

しかし、一方でもう少し自分から距離を置いて考えると、どうもそういう人、つまり、年寄りの世迷い言なんか読んでも仕方がないと思っている人が読まないでどうする?みたいな気にもなってくる、なんとも言えず妙な存在感のある話なのである。

主人公は益子徳一、72歳。務めていた会社は当然随分前に定年退職。生涯独身。同じアパートにもう10年以上住んでいる。

んで、最初のエピソードは(っちゅうか、これ、エピソードと言うのかどうかよく分かりませんが)誰かに「オジいサン」と呼ばれた記憶があるが、それがいつどこで誰に呼ばれたのか思い出せないという話。「い」だけが平仮名の変な表記は、その際の妙なアクセントを表現したものだ。

で、この小説はそのお爺さんの7日間の話なのだが、そこから同じような話がだらだらと続くのである。

近所の電気屋がテレビが映らなくなるから買い換えろと言ってきたのに対して、「『ちでじ』だか『じでじ』だか知らんが、そんなバカな話はない。このテレビはまだ充分映ってる」と言う話や、スーパーでついつい試食してしまったソーセージが油っこくて食えないと思ったのに、試食してしまった負い目から買わざるを得ないかと悩む話とか、目玉焼きを作るつもりが途中でいろいろ忘れたり手間取ったりしているうちに、玉子焼き、炒り卵と変わってしまう話とか。

繰り返して言うが、そんなもん読んでどうする?(実際、「今こんな本を読んでいる」と妻に言ったら、その通りのことを言われた)という本である。

京極夏彦はまだお爺さんでもないのによくこんなもんが書けたもんだと思う。そして、この人はストーリーテラーである前に立派な観察者であり相当力量のある文章家なのだと気づいた。

なんとも言えない老人の悲哀、いや、悲哀と一口に言ってしまうほど一色に塗りこめるのではなく、もちろん年を取ることの情けなさが薄いバックグラウンドにはなっているのだが、そこにはなんとも言えぬペーソスが描かれている。

全然面白くないお話である。しかし、読み終わったときに、全然面白くないお話がなんでこんなに面白いのかとおかしくなってくるような話である。

多分1冊目の京極夏彦としては不適切である。しかし、読んでしまったら誰かに勧めたくなる小説である。


【2014年2月23日註記】 このブログにも何度も書いているように、僕は本を読んでも映画を見ても、すぐにきれいさっぱり忘れてしまう。

ここでも冒頭で「京極夏彦の小説を読むのはこれが初めて」などと書いていて、締めの1行もそこに繋げているが、実は初めてではなかったのである。

思い出したのではない。書評リストが完成したら、下の方に『姑獲鳥の夏』の書評があったのである。

これだけでも書評リストを作った意味はあったというものである(笑)

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